ハードボイルド書店員日記【213】
「谷川俊太郎さんの追悼フェアやりたいんですけど」
急に気温が下がった平日の午後。レジを離れて事務所へ。来週の入荷をチェックする。横の席でデスクトップの画面を睨んでいた文芸書担当に声を掛けられた。
「いいと思う」
「ただ読んだことあるのが新潮文庫の『夜のミッキー・マウス』しかなくて。私はけっこう好きなんです。でも」
「ああ」
何が言いたいか伝わった。
「詩集は道徳の教科書じゃないから」
「大丈夫ですかね?」
「そういうものに抗う姿勢を見せる方が、谷川さんにとっても嬉しいんじゃないかな」
「……わかりました」
トーンが下り坂。責任を背負う正社員には色々あるのだろう。
カウンターへ戻った。
「谷川さんの本、ある?」
黒いコートを着込んだ白髪の男性。襟足が長く、背筋をピンと伸ばしている。
「文庫が何冊か」
隅に置かれたノートパソコンのキーを叩き、画面を見せる。
「この辺は全部読んだな」
「あとは絵本でしたら」
「あの人、絵も描いたの?」
「いえ、他の方の絵に作品を添える格好で」
「どんな感じだろう」
「オススメが一冊ございます。お持ちしましょうか?」
「見たいね」
「少々お待ちくださいませ」
「こちらです」
ほぼ日から2014年に出た「かないくん」を手渡す。
「帯にも記されていますが、松本大洋さんが二年かけて描き、谷川さんが一夜で綴ったとか」
「へえ」
パラパラと捲る。
「……ピッタリだね」
噛み締めるようにつぶやく。
「ええ」
「谷川さん、いまごろ向こうでこの本の続きを」
「書いているかもしれませんね」
「他には?」
「絵本ではなく、版元に在庫がなさそうですが」
「ほう」
「こちらはいかがでしょう」
10年ほど前に表参道の山陽堂書店で衝動買いした「祝魂歌」(朝日文庫)のデータを呼び出す。
「谷川さんが編集した本です。死をめぐる30の詩が収められています。彼の書いた『しぬまえにおじいさんのいったこと』及びあとがきも」
「読んだの?」
「あとがきの内容をうっすらと覚えています」
錆びついた歯車へ意志の油を注し込む。たしか106ページ。こんなことが述べられていたはずだ。
「……だといいね」
「肉体から解き放たれることで、あるいはより高次な精神的世界に」
「それはそれで大変そうだけど」
「身体を持たなければ疲れとも無縁なのでは?」
「いやあ、どうかなあ。頭だけだとむしろ気分転換が難しいよ。こう見えても体操とウォーキングが趣味だから」
それで姿勢がいいのか。
「すべては向こうへ行ってみないとわかりませんが」
「だね。僕の方が君より先だろうけど」
「あるいは」
「はは『あるいは』か。何でもそれぐらいがちょうどいいのかもね。さっきの絵本にもあったし」
今度は即座に記憶が蘇った。ページ数は記されていない。
ご購入いただいた「かないくん」を紙袋に入れて渡した。
「ありがとう。文庫本の方は、古本屋か図書館で探してみるよ」
「出会えることを祈っています」
「絵本というのは盲点だったなあ。助かったよ」
「またぜひ」
「追悼フェアとかやる?」
「みたいです」
「『夜のミッキー・マウス』は絶対に置いてほしいな。下品だ何だとそこばかり言及されがちだけど、僕はああいうのも詩人のピュアな魂の一部だと確信してる。それに木を見て森を見ないのはフェアじゃないよね」
背中を押してもらえた。もう一度担当に話してみよう。ありがとうございました。谷川さん、これからもあなたの作品を読み続けます。