ハードボイルド書店員日記【214】
「103万の壁、変わりますかね?」
木曜の午後。カレンダーを入れる超大型のレジ袋がなくなった。事務所でPCを眺めている総務担当の社員に伝え、カウンターへ戻る。先日はホッチキスの針が営業中に枯渇し、近隣の百円ショップへ探しに行った。忙しいのはわかる。予算が削られているのも。けど兵站確保は戦の前提条件。切れたら終わりなのだ。
文芸書担当の女性に声を掛けられた。
「どうだろう。引き上げられたら助かるけど」
「いまのお客さんとそういう話になって」
常連の女性だ。レジ袋を持参して「週刊文春」と「週刊新潮」を毎週買いにきてくれる。
「私、週4のバイトじゃないですか? 壁が178万になったら所得税がかからなくなるのかなって」
「おそらく」
「詳しいことはわからないけど、たぶんみんな恩恵を受けますよね? でもさっきのお客さんが言うには、メディアは税収が何兆円減るって話ばかりで、たとえば年収がいくらの人は」
「可処分所得がこれぐらい増える、みたいな報道が少ないと」
理由を考える前に集団が押し寄せてきた。いずれも籠の中は絵本の山。ラッピングの壁だ。
ようやくひと段落。腹の奥に空洞感を覚えた。
「さっきの続きですけど」
「ん?」
「先輩は壁が引き上げられて手取りが増えたら、何をしたいですか?」
「本を買いまくる。あとは月イチで行きつけの串焼き屋に」
「いまは?」
「二か月に一回」
「私はホットのチャイティーラテを毎週飲みます」
「チャイティー? ああスタバの」
「昔から好きなんです。ただショートサイズでも480円するから」
「我々のランチ一食分に相当するな」
「トールは520円ですけど、この40円が大きくて」
「わかるよ」
「できることならグランデを毎日飲みたいです。ベンティでもいけます」
たしかベンティは590mlのはずだ。
「あ、でもどうなんだろう」
「何が?」
「ささやかな夢は夢のままの方が幸せみたいな小説、ありますよね?」
「芥川龍之介の『芋粥』かな」
「それです!」
「在庫あるんじゃない? 新潮文庫の『羅生門・鼻』に収録されてるよ」
「調べてみます。ちょうど暇だし」
売り切れだった。
「角川と岩波は?」
「ないっぽいです」
「ブームが来たのかな」
「たまたまでしょう」
「あとはあれだな。ちくま文庫の『芥川龍之介全集I』」
「ウチ置いてましたっけ?」
「全巻はないけど序盤だけなら」
「『芋粥』入ってます?」
「読んだから間違いない。見てくる」
カウンターを離れ、大股でくだんの棚へ向かった。
「あったよ。120ページだ」
手渡した。カバー装画が忘れ難い。
「これ書かれた順ですか?」
「おそらく」
「ファンの人は嬉しいかも」
「文芸書にも置く?」
「いつか彼のフェアをやる時は」
「147ページを」
こんな文章が書かれている。
「先輩」
「ん?」
「芥川のことは尊敬してます。短編小説に関しては日本の、いや世界の文学史上でも屈指の書き手でしょう」
「同感だ」
「でもそれとこれとは話がべつです。私は惑わされません。メディアにも専門家にも、そして著名な天才作家にも」
左手で軽く抑えたページへ、右の人差し指を突きつける。
「この五位とかいう人、まだ気づいてないだけで満たされてますよ。絶対あとで思い直します。大好きな芋粥を飽きるほど、嫌になるほど味わえて幸せだった、あんな体験をできたのは人生で唯一あの時だけだったって」
「なるほど」
「ガッカリした、これなら夢のままの方が良かった、なんて実現させた人のノロケか遠回しの自慢としか思えません。いまの私は、誰が何と言おうとチャイティーラテを限界ギリギリまで堪能したい。がぶ飲みしたい。心の底から飽きてみたい。それだけです」
「いらっしゃいませ」
お客さんが来てくれた。ありがとうございます。
無制限に、値段も置き場所も気にせず好きな本を買い漁ることができたら幸せの極みだろう。ある種の失望や幻滅が副作用的に待ち構えていたとしても、それはその時のことだ。何でも先回りして悲観的になるのは、妙に物わかりのいい従順な羊を演じるのはやめにしよう。
名もなき庶民の、非正規書店員のささやかな願い。実現しますように。