ハードボイルド書店員日記【208】
「暇っすね」
三連休が明けた週の平日。人気コミックの新刊が発売されたが、朝から平和な時間が続いている。最低賃金の職場であることに甘んじるなら、これが平常運転と捉えるべきだろう。
「俺、帰ってもよくないすか?」
共にレジに入った雑誌担当がぼやく。翌日入るものの前の号を棚から抜き、返品の荷物も作り終えたらしい。
「もう少しの辛抱だから」
あり得ないミスは弛緩した時間の中でこそ。彼も私も何度かやらかしている。
「眠いわあ」
「そんなこと言ってると急に忙しくなるぞ」
「全然OKっす」
言霊は実在するらしい。
年配の小柄な男性がレジを訪れた。
「これ探してるんだけど」
正方形の白い紙を差し出す。私は電話対応を終えるタイミングだった。同僚が受け取るのを見て、すぐにレジへ戻る。書かれた内容が一瞬視界に入った。なかなかの数が記されている。
「少々お待ちくださいませ」
カウンターの脇に置かれたPCで在庫を確かめる。量が多いので時間を要する。老紳士がトントンと指先でカウンターを叩き出した。
「まだ?」
聞こえなかったのか検索に集中しているのか、同僚は返事をしない。「こんなに探させて急かすなよ」「そもそも検索機があるだろ」と思ったのかもしれない。
「お客様、あちらに椅子がございますので」
「時間かかるんなら、最初からそうしてよ」
「申し訳ございません」
カバーを折りながらサービスカウンターの状況に耳を傾ける。
「どれも在庫無いですね」
「一冊も?」
「ええ」
「こんなに待たせて?」
それは関係ない。
「すいません」
「ロボットの方がマシだよ。ささっとやってくれるでしょ」
「はあ」
「はあじゃないよ。おたくここの社員?」
「いやバイトですけど」
「責任者いないの?」
不穏な空気になってきた。今日この時間に出勤している唯一の正社員は店長だが、あいにくテナント会議で席を外している。やれやれ。また爆弾処理班か。
「代わるからレジ入って」
雑誌担当の座っていた椅子へ腰を下ろす。
「あなたは社員?」
「正社員ではないです。いま店長が席を外しておりまして」
「店が暇だからって気を抜き過ぎだよ。何かあったらどうするの?」
全くです。心の中で賛同した。日によっては、人手不足で正社員が出勤すらしていない時間もあるのだ。
「申し訳ございません。こちらがお探しの本のリストですね」
「これだけ広い本屋で一冊もないなんておかしいよ。探し方が悪いんじゃないの?」
いずれも新書だ。だいぶ古いか、もしくは売れた後の自動補充が遅れているか。同僚はかなり時間をかけて棚を見ていた。漏れがあるとは考えにくい。
リストの中にある一冊のタイトルが記憶に潜む何かを刺激した。検索して著者名を確かめる。
「お客様、こちらの新書は在庫ございませんが、同じ方の書いた別の本でしたら」
「見せて」
「かしこまりました」
「こちらでございます」
講談社現代新書「世界は経営でできている」を手渡す。著者は岩尾俊平。今年の一月に出た本だ。
「もう持ってる」
「そうでしたか」
考えてみれば当然だった。新刊を読んで興味を惹かれたから既刊も買おうと思ったのだろう。
「なかなか面白い本だったよ」
「ですよね。私も読みました」
「どの辺が面白かった?」
「最も印象深いのは『歴史は経営でできている』の章です」
183ページを開いた。こんな文章が書かれている。
「どうだろうねえ。国があってルールを定めなきゃこの世は無法地帯でしょ? そんなところに平和も何もないわけだし」
「仰る通りです。ただ何のために国ができたのか? 誰のための政治なのか? その原点へ立ち返る姿勢も大事かと」
「まあねえ」
「次のページには、いくら増税しても脱税する者が後を絶たないから税収は思ったように増えず、一般市民が苦しむだけと」
「そこは改善しなきゃダメだよ。ただそうはいっても財源がなきゃ」
「財源は国債。国債は家計の借金と同じ性質ではありません。インフレ率に目を配りつつ」
「それはどうかな。あまり詳しくないけど」
「ポプラ新書の『消費税減税 ニッポン復活論』が詳しかったです」
結局何も買わずに帰った。だが去り際に「もう一度、あの本読んでみるよ」「教えてくれた新書も覚えとく」と言ってくれた。
退勤時間はとっくに過ぎている。問題ない。またお会いできることを願っています。