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ハードボイルド書店員日記【174】

「これはおかしいでしょ」

4月並みに気温が上がった休日。昔の職場へ足を運ぶ。某スーパーマーケットの2F。児童書コーナーの脇から入った。

「こどものとも」などの福音館書店の月刊誌が面陳されている。本来は定期購読のみで返品できない商品だ。版元の了承を得たのだろう。現物が1冊も店にないものをいきなり年間予約というのは敷居が高い。

黒いスニーカーの先端が、日本史及び世界史のエリアへ向く。己が担当し、力を入れている棚を見て比べたくなるのは書店員の性だ。グレーのハンチングを被った小柄な老紳士が、若い男性店員に声を荒げている。こういう場合、従業員は理由の如何を問わず「申し訳ございません」と頭を下げるのが定石だ。しかしかつての後輩はその素振りを見せない。マスクで口元が隠れているのを幸いに笑みすら称えている。

「あ、先輩」見つかった。紳士が振り返る。「アンタ、この人の先輩?」その通り。ただし過去の。東京オリンピックの延期が決まった翌週に関係性は終わっている。「ちゃんと教育しなきゃダメでしょ」「どうしたんですか?」「世界史の棚を見なさいよ」

目の高さに、創元SF文庫の田中芳樹「銀河英雄伝説」全10巻が差しで並んでいた。「戦争と平和を考える」という手書きのPOPも添えられている。「これが何か?」「何かじゃないでしょ。私も知ってるけどSFのスペースオペラだよ。小説の棚じゃないんだから、ちゃんと実際の歴史について書かれた専門書を置いてくれないと。フィクションを混ぜられたら紛らわしい。遊びでやられちゃ困るんだよ」レジから離れているせいか、社員は誰も来ない。異動になるか辞めていなければ○○さんが出勤しているはずだ。人手不足でシフトが変わったのかもしれない。ウチも似たような状況だが。

「たしかに奇抜ですね。しかし必ずしも的外れではないかと」「どこが?」何でもいいんですけど、と背表紙を見据えた。「たとえば3巻の206ページを開いてみてください」こんなことが書かれている。

「人間の行為のなかで、なにがもっとも卑劣で恥知らずか。それは、権力を持った人間、権力に媚びを売る人間が、安全な場所に隠れて戦争を賛美し、他人には愛国心や犠牲精神を強制して戦場へ送りだすことです」

もしくは、と隣の4巻を引き抜き、記憶を頼りに171ページを開く。そこにはこんな文章が載っている。

「絶対的な善と完全な悪が存在する、という考えは、おそらく人間の精神をかぎりなく荒廃させるだろう」
「自分が善であり、対立者が悪であるとみなしたとき、そこには協調も思いやりも生まれない。自分を優越化し、相手を敗北させ支配しようとする欲望が正当化されるだけだ」

黙ってページに見入っている。作品の存在は知っていても内容は把握していなかったらしい。「……なるほど」「史実を描いているわけではないので紛らわしいのは事実です。その点は申し訳ございません」軽く頭を下げる。乗りかかった船だ。挑戦的な後輩にアイデアの方向性を与えた責任も皆無とは言えない。「でも戦争や平和のあり方へ目を向け、人類の歴史が示唆するものについて考えようというテーマの選書ならば有効だと確信しています。様々な史実に材を取ったと思しきエピソードが多数出てきますし」

「助かりましたよ」休憩時間。並んで従業員用のバックヤードへ向かう。もちろん私はドアの前で引き返さないといけない。「物わかりのいい方だから納得してくれたけど」「むしろ喜んでましたね」「ああいう時はまず謝らないと」「何でです? 間違ったことしてないのに」元々不遜ではあったが4年経っても角が削れていない。「おまえを見ていると佐久間象山を思い出す」「誰すか?」「幕末の思想家。参謀としては一流だが人間としては」「『銀英伝』のオーベルシュタインすか?」「少し違う。近い要素もあるけど」「だったら褒め言葉です」首がむず痒い。まるで昔の誰かだ。

「いつから歴史書の担当に。文庫は?」「新しく来た社員に取られました。それで空き家へ回されて」「気の毒だったな。でも担当なら佐久間象山は知っておいた方がいい」「覚えました」同時に歩みが止まる。「先輩、今日はありがとうございました」「いや」「『銀英伝』を世界史へ置いたのダメすか?」「だな」「やっぱそうですか」沈んだ肩をポンと叩く。「外伝の5冊がないとな」

弾けるような笑顔を見送った。次に会うときが待ち遠しい。

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