見出し画像

ハードボイルド書店員日記【106】

「あれ何ていったかしら。あれ」

木曜の昼下がり。気温が少し下がって天候も不安定だ。先週から前年比を割り続けている。時給が上がり、売り上げは下がる。逆よりもマシとはいえ、タコが自分の足を食べて凌ぐ状況は芳しくない。

休憩から戻る。14時に帰るパートの女性がお問い合わせカウンターで捕まっていた。相手は金縁メガネをかけた白髪の老婦人。斜めに椅子に座り、しきりに唸り声を上げている。

「代わりますよ」「あ、すいません。お願いしていいですか」「お探しのものは?」「小説です。題名も著者も思い出せないそうで」「了解しました」「お先に失礼します」申し訳なさそうに事務所へ戻る。契約で決まっているのだから何の遠慮も要らない。退勤には早すぎるようだね、などとぼやく野暮な同僚はこの店にはいない。いるのはハードボイルドを気取った安月給の冴えない中年だけだ。

「お待たせいたしました。小説をお探しとか」「そうなの。ああ、もうそこまで出てるんだけど」天井を見上げ、貧乏ゆすりを繰り返す。「新しい本ですか?」「ううん。昔の」「日本の?」「もちろんそうよ」なぜもちろんなのかは訊かなかった。「夏目漱石、森鷗外、三島由紀夫、川端康成」動きがぴたりと止まる。「続けて」「大江健三郎、坂口安吾、島崎藤村」「うん、そういう感じの人」つまり近代の純文学か。

「志賀直哉」「ううん、そんなんじゃない」マスクの下で苦笑を噛み殺す。小説の神様も形無しだ。「谷崎潤一郎、太宰治、芥川龍之介」「違うのよねえ。あれえ、何ていったかしらあの人」少し角度を変えるか。「宮沢賢治」「その人は知ってる」「江戸川乱歩」「少年探偵団? ああいうんじゃないの」これ以上作者から攻めても難しそうだ。「短い話ですか?」「どうかしら。まあまあ長かったような」「内容は」「旅をするの」「旅?」「昔の知り合いと会ったりして」「最後は?」「最後は感動的で。すごくいいセリフで終わるの」目尻が細くなった。旅をして昔の知り合いと会い、感動的なセリフで終わる。背中の真ん中が痒くなった。

「興味を持ったきっかけは?」「何年か前に友だちに勧められたのを突然思い出して。彼女の家のリビングでパラパラ読んだの」「文庫ですか?」「ええ」「題名は思い出せないですか?」「ええ」「お友達は小説をよく?」「割と買う方ね」「好きな作家さんは?」「わからないけど……あ、あれ読んでたわその時」「あれ?」「髪の長い芸人さんのデビュー作」「又吉直樹『火花』ですか?」「そうそれ。しかも文庫じゃない方」つまり単行本か。「ではお客様がお探しの本も又吉さんの」「そうじゃないのよ」

考える。薄い和紙を水の中へ潜らせるように。又吉好きの友人の家にある小説。

金魚を一匹すくう。

「題名は漢字ですか?」「たぶん」「カタカナや英語ではなく」「だと思うけど」「かしこまりました。それっぽい一冊をお持ちします」

「お待たせいたしました」「あった?」「これではないかと」太宰治「津軽」を机に置く。「いや、違う人だと思う」「この作品は全体的に明るい雰囲気で太宰らしくないと評されています。しかも故郷の青森を訪ねる旅。最後はかつて子守りをしてもらった『たけ』さんと再会し、こう締め括るんです」本を開かずに続ける。「私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬」

メガネの向こうの眼球が渡辺謙になった。「独眼竜政宗」で毒を盛られた際、こんな表情を浮かべたのだ。「あなた何? 覚えてるの?」「たまたまです」「本が好きなのねえ。あら、このシリーズJTBが出してる。初めて見たわ」「版切れですが、たまたまバーゲンブックとして入荷を」「バーゲンブック?」「出版社の意思で割引が可能になった本です。どれも未読の新品ですが、古いものが多いので若干の経年劣化が」「普通のはなかったの? 新潮文庫とか」「申し訳ございません。部屋の書棚に見当たらなくて」「部屋?」「間違えました。お店の」

喜んで買ってくれた。旅ガイドが付いていてお得だと。お目当ての本だったかはわからない。ともあれ、この場を借りてJTBパブリッシングに復刊を推薦しておく。最近は外国人のお客さんが増えてきた。ここ数年は殆どなかった国内外の旅行客が来てくれたら嬉しい。前年比にも好影響だ。旅と読書はある意味セットゆえ、観光シーズンの巻き返しに期待しよう。

絶望するな書店員。では、失敬。

この記事が参加している募集

作家として面白い本や文章を書くことでお返し致します。大切に使わせていただきます。感謝!!!