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ハードボイルド書店員日記【155】
「東野圭吾の『マスカレード・ゲーム』はありますか?」
品出し中。ノースリーブの青いニットを着た女性に声を掛けられた。調べるまでもなく棚から取ってきて手渡す。「できたら文庫の方を」「申し訳ございません。単行本が出たのが昨年の春なので、まだ」「あ、そういうものなんですね。すいません知らなくて」私も書店で働くまでは知らなかった。太宰治や芥川龍之介がそうであるように、すべての現代作家の小説も即文庫で買えると信じ込んでいた。
「どれぐらいかかりますか?」「前作の『マスカレード・ナイト』は2017年に単行本が出て2020年に文庫化されました」「3年」「東野さんの場合はだいたいそれぐらいかと」「あれは何でしたっけ? 去年映画になった」「ガリレオシリーズの『沈黙のパレード』ですね。単行本が2018年、文庫は映画公開の前年に」「ということは2021年。やっぱり3年かあ」アーモンド型の瞳を細めて考え込む。「ガリレオの最新刊が出たのは」「『透明な螺旋』の発売は2021年9月です。『沈黙のパレード』の文庫とほぼ同時でした」「じゃあ来年まで待たないと」「おそらく」
視線がこちらへ向けられる。「お詳しいですね」「ありがとうございます」「東野さんの担当とか?」なんだそれは。編集者じゃあるまいし。「たまたま好きな作家なので」「私も! 東野さんいいですよね」雪の結晶を纏った微笑み。左手の薬指に気づかなかったら、実に面白いと声真似をするところだった。
カウンターへ戻る。週末の長時間レジは息継ぎのできない潜水だ。なおかつ腰に響く。「すいません。東野圭吾の」今度は大学生らしきオシャレな男性。ピアノの鍵盤を模したトートバッグを携えている。懐かしい。私が学生の頃は仲間内で『のだめバッグ』と呼んでいた。「はい」「うろ覚えですが、たしかハヤシライスのレシピを」「ございます」講談社文庫へ案内して「流星の絆」を抜き出す。「すごい! ありがとうございます」スマホを取り出し、なにやらメッセージを打ち込む。送る相手の得意料理はおにぎりに違いない。
ノートPCの前で同僚の女性が首を傾げ、わかりませんねえと呟く。年配のご婦人が「絶対あるはずよ! 読んだの覚えてるんだから」と声を張り上げる。「どうした?」「あ、先輩すいません。東野圭吾の」なんて日だ。「東野さんの?」「小説でたぬきの話が出てくるのを探してるとおっしゃるんです。でもどう検索しても」「あるよ」キーを叩き、集英社文庫「怪笑小説」を呼び出す。在庫なし。「これに収録されている『超たぬき理論』で主人公がUFOの正体は文福茶釜だと」「それ! それが欲しいの」「申し訳ございません。当店には」「取り寄せは?」「できます」「じゃあお願い」
時々ふと虚しくなる。俺はあの人たちを喜ばせるために本を読んでいるわけじゃない。検索なら店に置いている端末を使ってもらえ。どうせ安い時給でこき使われているのだ。熱を込めて対応する義理などない。だがそこで数年前に読んだ「マスカレード・ナイト」の一節が脳裏を過ぎる。たしか247ページ。こんなセリフだ。
「スキーのジャンプは、高く舞い上がっているように見えるけど、じつは下に向かってジャンプしているんだそうですよ。踏切地点の角度はマイナスだとか」
「高さを求めるのだけがジャンプじゃないと思いますよ」
そうだ。そうなのだ。忘れるところだった。カネは大事。でも高い給料を求めることだけが仕事じゃない。そもそも地球は丸いのだ。いっそ下に向かって景気よく飛べば、ぐるりと一周していちばん高いところへ出られるかもしれない。
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