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【人生ノートMagazine】一心が神に通じぬ筈は奈い

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人生ノートの中から信仰とはなんなのか、神さまの世界について触れている部分をまとめてみました。
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#習慣にしていること

【人生ノート 266ページ】祈れば光が射してくる 

つらくとも辛抱 祈れば光が射してくる 今まで見えなかった道が見え出してくる その道をお進みなさい 進むのはあなたの足で また行き詰ったらまたお祈りなさい 祈れば光が射してくる 苦しいのはつみがあるのだ 痛いのはけがれがあるからだ 苦しくても暫くだ 痛くてもちょっとだ 永遠の栄えに入るんだから辛くても暫くだ 洗濯される間はちょっといやだ しみが除れたら軽く清くなる あとはらく嬉しく有難くなる しみをすてておいたら何時までも不潔でみじめだ 辛抱せね

【人生ノート 258ページ】理屈を好まぬおだやかな、ぼんやりとしたあたたかい心が神の心である。

変通自在、千変万化自分はえらいとか、これこれの力を有していろとか、あの人は博士だからとか、大臣だからとかいうような先入感は、人と接するに際して非常な禍をなすものである。 特に人は死ぬる時までが修養の期(とき)であるから、四十になっても五十になっても、「自分はもう年がよったから … 」というような考えをおこして、ずるけたり、しょげたりしてはならぬ。人はいつになっても「わしはまだ赤子だ」と思っておればよい。ひとの毀誉(きよ)を超越して、毎日少しずつでも修養して行くべきである。「

【人生ノート 252ページ】絶大なる意志の所有者を「神」という。

神とは何ぞや 天地万物は関連し統一されている。しかも、絶えず動いている。 いかに動き、いかに変化しても、やはり相関連しており、渾然として統一されている。 複雑微妙なる統一体が、偶然に出来あがるものではない。これ、絶大なる統一意志がはたらきかけているからである。 この絶大なる意志の所有者を「神」という。 『信仰覚書』第七巻 神とは何ぞや 出口日出麿著 【これまでのノート】

【人生ノート 249ページ】みなそれぞれに、無理なしになし得ることを面白くなしていったらよいのだ。

興味もてる仕事を要するに、真実に自己の内心に忠実であったらないのだ。 いかに気ばったところd,英雄ならざる人には英雄のまねはできるはずはないし、哲人ならざる人が、哲人をよそおうことも到底できるものではない。 他人は他人、自分は自分、みなそれぞれに、無理なしになし得ることを面白くなしていったらよいのだ。 無理をすると、どうしても苦悩がともなう。元来、神は人間をその手足として働かせるためには、みなそれぞれに、興味あることをさえして行けば、自然に、その職能が果たしてゆけるよう

【人生ノート 248ページ】とにかく理想に向かって突進すべきである。できる出来ぬは問題ではない、でかすべく努力することがよいのだ。

できる範囲で玉石混交のメチャクチャな世の中がいやになって、こんなことでは、とても一代や二代の間にはどうにもこうにもおさまりはつきそうにもない。自分ひとり、どれほど気張ってみたところで何になる。いっそのこと、どうなりこうなり自分の身だけが無事に食ってだけゆければそれでよい。まア、生まれ変わるまで待たなくては、とても良い目を見ることもできまい。この世の使命はとにかく、こうやって縮こまって、めぐりの借銭なしをしておればよいのだ。と幾度か思うけれども、また一方、 「いや、そうでない

【人生ノート 246ページ】 つねに腹の底から笑い得る人間ほど、神に近いのである。神の国は笑いに充たされている。

笑う人間ほど神に近い どうも、一番最初にフト思い浮かんだことが正確らしい。後から、いろいろと迷って、いろいろと理智の力をかりて訂正してみるが、かえってそのために間違っている場合が多い。 ○ ある一つの世界から他の異なる世界へ行く時には、人間はちょっと面倒と苦痛とを感じるものである。これは、境遇の変化にともなう必然的の手段と苦痛とであって、ぜひもないことである。 人が死ぬる際、少なからぬ煩悶と苦痛とが伴うのもこれがためである。日本に住んでいたものが急に英国へ旅行した場合

【人生ノート 243ページ】 至公至平に自分というものを見つめることを怠ってはなりませぬ。

信仰は体験で固まる「現界では、その魂の型をくりかえす」ということは、間違いのないことです。たとえば、前生において女で失敗った人は、今世でもまた、ある機械にきっと同様の問題が怒ってくるものです。しかし、ただこの場合、前にしくじったと同じ程度に、今度もまた必ずしくじらねばならぬかというに、決してそうではありません。この場合、その人の信仰と覚悟のいかんによって、前の型はホンの真似だけですんでしまうこともあり、ヘマをやってまごつくと、却って、まえの失敗よりヒドイことをやる場合もありま

【人生ノート 230ページ】 自分が近寄っただけ、神さまは近よられるのである。自分の想念から「神」が去っただけは、神さまから遠ざかってゆくのである。

想念につねに神を因果法則は神律である。努力しただけの効果である。自分が会得したよりほかに、糊でひっつけたりメッキしたりは、決して永久的になし得ることではない。 一日神さまは、祈りに応じて、上へ引きあげては下さるけれども、まだそれは真の会得の結果ではなくして、一時、応急手当として救いあげて下さったまでであるから、そこでその人が、神の慈悲に感泣して、 よく堪えしのび、修業をするならば、はじめてそこにおれる正しい資格を与えられるが、もし慢心が出て、自分はもう完全にここにおるだけ

【人生ノート 207ページ】自己の諒解し得ることは、みな自己にそれだけの潜在能力ある故なり。

人の内分とは、その意志(愛よりす)想念(智よりす)に属する一切をいい、外分とは表情、言語、動作に属する一切をいう。その内分の積み重なりて形成されたるを内人といい、その外分の積みかさなりて形成されたるを外人という。霊眼で見るは内人にして、肉眼で見るは外人なり。 思うは内界にして、在るは外界なり。 思うが故に在り、在るが故に思うなり。 ○ 現界は苗床にして、霊魂は種子なり。 いかに良質の種子なりとも、これを悪しき苗床に蒔きなば、その発育の劣悪となるや必せり。また、如何に

【人生ノート 221ページ目】 主観はどこからやってくるのか。

主観は霊界に属す 人間心でいろいろと考えずに、万事素直に、周囲より自然に自分にせまって来ることをしていたらよいのだ。ところが、理智が邪魔をして、けしからぬとか、ワシをバカにしとるとか憤慨して、大抵の場合、悪く解釈して反抗的態度に出るからいけない。 なるほど、時には堪えられないとまで考えることもあろう。しかし、それは心の持ち方が間違っているからだ。どんな卑しいことをさせられる場合でも、人を相手とせず、神さまのご命令だと思い、その仕事をできるだけ興味づけ意義づけ、すなわち、霊

笑う人間ほど神に近い

どうも、一番最初にフト思い浮かんだことが正確らしい。後から、いろいろと迷って、いろいろと理智の力をかりて訂正してみるが、かえってそのために間違っている場合が多い。 ○ ある一つの世界から他の異なる世界へ行く時には、人間はちょっと面倒と苦痛とを感じるものである。これは、境遇の変化にともなう必然的の手段と苦痛とであって、ぜひもないことである。 人が死ぬる際、少なからぬ煩悶と苦痛とが伴うのもこれがためである。日本に住んでいたものが急に英国へ旅行した場合にもそうである。かたい文

「ちいさな心がけと因果法則」

みたまの向上の道程においては、苦難をよろこび、一難ごとに新しい世界を開く考えで、苦難そのもののために 心を苦しめ悩めず、神第一に、あるまま、なるままを嬉しみつつしんで、もし人が尻を拭けといったら、ああこれで一役すんだという気になり、ころげて足をすりむいたならば、ああ有難い、大難を小難ですましていただいた、という気になって、すべてを見直し聞直してさえおれば、次第にみたまは向上してゆくものだ。それを、一々はかなみ、恨み、ねたみ、怒り、疑い、泣きしているから、表面どんな善いことを

偉大な事業の成功と神霊の加護

偉大な事業は、偉大な魂でなくては決してできない。これらはいな自己純粋の力によったのではなくして、ある神霊の守護によったものである。神霊の守護なくして、自己一流の思惑を立ててみたところで、 決して最後まで成功するものではない。そのことは、われわれが神懸りの時と、自己に帰っている時とを比較してみて、いかに自己のみの単独の力の弱く、はかなく、みじめであるかを悟るたびに思わされることである。 しかし、神にもいろいろあるが、主の神にまさる神はない。主の神に背くものは亡び、向かうもの

人生は報恩と知恩

自分のことを考えて見ても、自分はやはりなっていなかった、わがまま気ままものであった。 多少、近ごろになって有難さがわかりかけた。その意味で、この話は自分の一つの懺悔である。 有難さはわかっているつもりでも、有難さは沁み込んでいなかった。 天地の恩ということについても徹底しておらなかった。 私はこのごろになって、恩報じは少しでもせねばならん、人間の生活は報恩であると感じたのである。要するに、神徳の万分の一、神慮の百万分の一でもかまわんから、自分を今日にしてくれたものに対して報