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偉大な事業の成功と神霊の加護

偉大な事業は、偉大な魂でなくては決してできない。これらはいな自己純粋の力によったのではなくして、ある神霊の守護によったものである。神霊の守護なくして、自己一流の思惑を立ててみたところで、

決して最後まで成功するものではない。そのことは、われわれが神懸りの時と、自己に帰っている時とを比較してみて、いかに自己のみの単独の力の弱く、はかなく、みじめであるかを悟るたびに思わされることである。

しかし、神にもいろいろあるが、主の神にまさる神はない。主の神に背くものは亡び、向かうものは栄えるまでだ。野心や慢心のある人へは、それに相応した霊が憑依して、それ相応のまが業を行なわせる。

我々はあくまでも主の神を信じて、これらの悪魔に心を乱されぬだけの力を享けておらねばならぬ。

肉体の吾に相当の眼識がないと、どうしても、事にあたって迷いやすい。ことに、常識のない者の神懸りは、すぐに肉体が信じてしまうので、すこぶる危険なのだ。

人の噂も七十五日ということがあるが、人間が、いかに過ぎ去りしことに無関心であるかということを

しみじみ考えさせられる。自分の過去の主張や言説にしても、その当時は「これに間違いは決してない」かの如くに吹聴しておきながら、時日が少し経って、まるで、そんことと正反対の言動に出ても、他人がさほどに咎め立てせねば、また自分自身も昔のことはもうケロリと忘れてしまっている。

ひるがえって思うに、こうした好都合の健忘性を与えられているによって、われわれは、その日その日を面白おかしく暮らしてゆくことができるのだろう。

また“来年”のことをいえば鬼が笑う”という諺があるが、人間に未来のことが、いかに暗闇であるかということをしみじみ考えさせる。毎日毎日の出来事において、はたしてその中のどれほどが自分の予期していたとおりになったであろうか。十中の八、九まで、思いがけないことから思いがけないことへと、転々として進んでいるではないか。

実に人間というものは、瞬間の目先のことしか分からないのだ。これをもってしても、いかに肉体心というものが頼りないものであるか、ということが分かる。

『信仰覚書』第三巻、偉業は神霊の加護で

これまでのお示し


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