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人生は報恩と知恩

自分のことを考えて見ても、自分はやはりなっていなかった、わがまま気ままものであった。
多少、近ごろになって有難さがわかりかけた。その意味で、この話は自分の一つの懺悔である。

有難さはわかっているつもりでも、有難さは沁み込んでいなかった。
天地の恩ということについても徹底しておらなかった。
私はこのごろになって、恩報じは少しでもせねばならん、人間の生活は報恩であると感じたのである。要するに、神徳の万分の一、神慮の百万分の一でもかまわんから、自分を今日にしてくれたものに対して報恩しなければならない。

報恩ということ、知恩ということ、
これが要するに人生である。そういう気持ちになりきったところへ、真に神の光はさしてくるものである。
ただ日々の生活上において、いろいろな雲のかかるということ、これは覚悟せねばならんのであります。過去の因縁により、あるいは周囲の修業により、あるいは天意により、いろいろな雲がかかって来るものであり、雲なしには磨けないものである。

また本当の有難さはわからんものであって、これは来るものであるということを覚悟して、それを切り抜けるに努力し、雲が去るのを待てば、つぎつぎにまた自分がすすんで行くものであります。

信という方面においても、沁み込むということがあって、はじめて確立してくる。
多少お互いに信じ合っていても、生活を共にしてみれば誰でも欠点はあるーー長所もあるがーー。
これは不完全な人間だからしょうがない。ほんとうの信じ合う境涯にはよほどの努力がいり、沁み込ますことが必要である。

夫婦、親子、兄弟のあいだにおいても、信を確立することはなかなかむつかしい。

それだけに、他人に対するときは、よほどの心からの努力がなければいけない。

いわんや、より以上の神仏に対しておやである。

『信仰叢話』、人生は報恩と知恩、出口日出麿著

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