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【人生ノート 258ページ】理屈を好まぬおだやかな、ぼんやりとしたあたたかい心が神の心である。
変通自在、千変万化
自分はえらいとか、これこれの力を有していろとか、あの人は博士だからとか、大臣だからとかいうような先入感は、人と接するに際して非常な禍をなすものである。
特に人は死ぬる時までが修養の期(とき)であるから、四十になっても五十になっても、「自分はもう年がよったから … 」というような考えをおこして、ずるけたり、しょげたりしてはならぬ。人はいつになっても「わしはまだ赤子だ」と思っておればよい。ひとの毀誉(きよ)を超越して、毎日少しずつでも修養して行くべきである。「わしはまだ赤子である」と真に思っておれば、決して恥ずかしいこともなければ、また誇りたい気持ちにもなり得るものではない。「自分は一人前だ … 」などと、うぬぼれているから、他人からのちょっとした言動が、すぐシャクにさわったり、腹が立ったりするのである。
○
苦労した人は隅から隅まで気がつき易いとともに、また一面、気がねや遠慮やひがみ根性などにも陥りやすい。よい家庭に育って世の風波を知らずにきた人は、人間が伸びのびして無邪気ではあるが一面どうしてしても迂愚な点がないでもない。かくのごとく、すべて宇宙のことは、一方に偏すれば、どうしても欠点を生じてくるものである。だから理想として、人間は年少の時には、あらゆる経験を経て世の辛酸をなめ、長じて固有の神性に復り、偉大なる性格を成就すべきである。
有無相通ずるが大宇宙の真理であり、賢なるがごとく愚なるがごときが、これ大真人の常である。迅きこと風のごとく、静かなること林のごときが、これ吾人の理想である。時に応じて火を出し、水を出すが、真性のマニの宝玉である。すべからく人は、目から鼻へ抜け通っておるべきであり、また赤子のごとく無邪気に単純であるべきである。すべてを知っており、またすべてを忘れておらねばならぬ。知っておるがために禍され、また知らざるがために禍されてはならぬ。
海となり山となり、朝をつくりまた夕べをつくる。風を起こして雲を呼び、日を現わし月を現わす。
大宇宙の限りなき変化は、これことごとく天之御中主大神ご一体のご所為のみ。人は小宇宙なり、小天之御中主神なり。その働きもまたすべからく変通自在、千変万化ならざるべからず。言動に余韻あり含蓄あり、生活に潤いあり弾力なかるべからず。
「一」にとらえらるるなかれ。「二」に執着するなかれ。「三」に偏するなかれ。「四」を絶対となすなかれ。一より無限大に到るまで、そのいずれにか、虚偽あり不要あらんや。
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理屈を好まぬおだやかな、ぼんやりとしたあたたかい心が神の心である。これに反して、落ち着きのない、冷やかな理屈っぽいのは、けものの心である。
人体は霊の宿泊所であって、自己の心と感応するいろいろな高級、低級霊を容れることが出来るのである。かように作られているのであるから致し方ない。だから、人は常に内心をつつしみ清めて、かりにも悪を思わないようにしなければならぬ。常に、われとわが心を省みて、悪魔のつけこむ隙のないようにしなければならぬ。
人とつき合っても、こっちから「あいつはいやな奴だ」と思う心がちっとでもあれば、先方も、自然それ霊流を感じて「なに、あんな奴が … 」という考えになってくるものである。
世の中に何が怖いといって、人の心ほど怖いものはない。
神様の御事を考えておれば、自分の部屋の雰囲気も、自然、神々しくなってくるし、人を恨んだりそねんだり、残念がったりなどしておれば、知らず知らずのうちに、自分は地獄や修羅道に身を置くことになるのである。
思うことは在ることであり、生ずることである。人間は、おのが狭い心から、求めて敵をつくっているのである。たとえ自分を苦しめる者をでも、行為をもって待遇してやれば、やがて先方もその非を悔ゆるものである。何となれば、人の性は善であるからである。
『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著