【人生ノート 221ページ目】 主観はどこからやってくるのか。
主観は霊界に属す
人間心でいろいろと考えずに、万事素直に、周囲より自然に自分にせまって来ることをしていたらよいのだ。ところが、理智が邪魔をして、けしからぬとか、ワシをバカにしとるとか憤慨して、大抵の場合、悪く解釈して反抗的態度に出るからいけない。
なるほど、時には堪えられないとまで考えることもあろう。しかし、それは心の持ち方が間違っているからだ。どんな卑しいことをさせられる場合でも、人を相手とせず、神さまのご命令だと思い、その仕事をできるだけ興味づけ意義づけ、すなわち、霊的に大きく見て、自分のためだと思ってやりさえしたら、大抵のことはなんでもない。
ところが現代の人は、心が非常に小さく、ちょっとしたことにも腹を立て、自己を主張し相手を恨み、惟神を無視して自己ながらの無理を始終やっている。
すべて、自分に対して出来てくることは、一々みな、相当の理由があるのであって、其れを受けるべき資格が(善事にせよ悪事にせよ)自分にそなわっているからなのである。神は至公至平だから、決して、それだけの資格のない者に、それだけのことをお与えにはならないのである。
こういうと、では、いまの世上に立って幸福に暮らしている人たちは、みな何れも、それだけの資格があるのかと反問するであろうが、それは考えが浅い。いわゆる地位や財産を擁していることが、決して真の幸福なのではない(少なくもいまの世では)。
物質は物質の法則によって支配される。だから、物質を得るためには、それを得るあらゆる努力をつくしたならば、とにかく、ひと通りこれを得ることができる。が、しかし、物質を得ることが、はたして永遠の幸福となるであろうか。また、あらゆる手段をほどして地位を得たことが、はたして幸福の種となるであろうか。なるほど、外見上では幸福であろう。しかし、真実はどうであろうか。かならずしも、幸福はかかるものと付随していないのである。
真の永遠の幸福は心にあるのであって、心の状態は霊界に属しているので、断じて、物質をもって左右するわけにはゆかない。はげしい悲しみの人へは、どんな景色も、どんな馳走も、どんな音楽も効果のないものだ。(なるほど、ある程度までは、これらによって緩和され得るのは事実ではあるが)
自分の心境次第によって、ある時は、同一事物に対しても非常に面白く感じ、また、ある時は有難く … いろいろと変わってくるのである。こえは明らかに、その客観的の事物に原因するのではなくして、主として、自己の主観によるのである。主観は霊界につながっているのであって、その時の精霊の具有せる性状に起因するのである。
しずかに内省してみる時、人はなんの原因とは分からずに、ただうら悲しくなって来たり、まあ愉快になってきたり、時には非常に元気づいたり、また非常にしょげていたりする。これらは決して、
その原因が単なる現界事象にのみよるのではない。その証拠には、客観的には同一事象が時には嬉しかったり、時には悲しかったり、またその嬉しさ悲しさの度も、時によって大小いろいろと変わっているのである。すなわち、大部分主観によるのである。
その主観なるものはどこから来るか、現代の学者は遺伝と経験とに帰している。なるほど、これはある意味において正しい。が、この遺伝なるものは如何にして起こるか。これは、単なる生理現象の研究からのみではどうしても分からぬ。生命の起来という問題は、物質論からでは明らかにゆき詰りである。霊界の存在がわかり、霊界と現界との相関が分かって来なくてはならぬ。
今は、これらの問題は略して、単に、主観は霊界に属す、ということのみに止めておく。
『信仰覚書』第五巻、出口日出麿著
【これまでの振り返り】
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