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【人生ノート 243ページ】 至公至平に自分というものを見つめることを怠ってはなりませぬ。

信仰は体験で固まる

「現界では、その魂の型をくりかえす」ということは、間違いのないことです。たとえば、前生において女で失敗った人は、今世でもまた、ある機械にきっと同様の問題が怒ってくるものです。しかし、ただこの場合、前にしくじったと同じ程度に、今度もまた必ずしくじらねばならぬかというに、決してそうではありません。この場合、その人の信仰と覚悟のいかんによって、前の型はホンの真似だけですんでしまうこともあり、ヘマをやってまごつくと、却って、まえの失敗よりヒドイことをやる場合もあります。

守護神が霊界において、すでに改心して神光に浴している肉体ならば、かかる場合でも肉体は知らず知らずの間に、うまく、軽い型で通過することができますが、そうでない場合は、余程しっかりしておらぬと、楽々とはパスすることがむずかしいのです。

いずれにせよ、信仰力(真の意味の)即ち人格であり、神格なのであすから、真にしっかりした徹底した信仰にはいるべく努力し祈願するのが、人間としては最重要のことであります。信仰さえ徹底しておれば、他人だったら、命からがらであるべき場合でも、自分は楽々と、わけなく通過することができます。

一口に言えば、天国は信仰の国土であり、地獄は無信仰の国土であります。信仰あるところには光あり熱あり力があり、したがって、歓喜と平和と活力とがありますが、無信仰のところには暗黒と冷酷と無気力とがあるだけであり、したがって、そこには悲痛と騒擾と遅鈍とがあるばかりであります。

信仰はどうして得るかとと申しますと、現界では、まず、何かの不満、不平、不審などが始まりで、

自分というものが、いかに小さく無力であり、自分の力では如何ともすることが出来ないということを心の底から悟って、この世を如実にしはいしているものに頼りたいという気になることが第一歩であります。

この世を如実に支配している、目に見えぬ神の存在を確認するまででも相当にかかります。しかも人間的理智以上のものを、人間的理智によって解釈せんとしたところで到底ダメです。とにかく、ただ、不思議な活きている力が吾らを支配しているということさえ悟れたらよいのであります。

信仰は理屈ではなくして体験なのですから、いろんな目に会わされてのち、はじめて固まるものです。が、しかし、すでに霊界にはいっている守護神には、それ相当に信仰の境域に住しているのですから、現界の肉体は、知らず知らず、守護神にみちびかれて、守護神相当の信仰境へは、たとえ多少の波乱曲折を経るにしても、とにかく、はいり得るものです。それでも、肉体心(すなわち、肉体に直属している地的精霊)、大本でいう副守護神が早く守護神に応ずるようにならなくては、守護神があせっても、時がおくれることになります。これも、守護神の因縁によることでして、肉体のみを悪くいうわけにはゆきません。

思想からはいっても、病気からはいっても、あるいは、なんとはなしにはいっても、その入信の動機は問題ではありません。要は、神を信ずるという心にさえなればよいのであります。通例、まず、守護神に分かって、肉体をつれて来、つぎに、副守護神その他の憑依霊にも、それ相当な信仰が湧いて来るのでして、この期間を第二次修業というのであります。

この第一次から第二次修業に移る際に油断をすると、「引っかけ戻し」に遭いやすいのであります。すなわち、守護神が変わるので、肉体としての考え方がガラリと違って、急に世界が小さく狭くなるので、今まで確かだった信念も悟入も、なんだか、あやふやのボンヤリしたものになって来るのです。よほど注意して我を出さぬよう、上長者の言に従うよう、事を大きくせぬよう、人と争わぬよう、よくよく省みるようにせねばなりませぬ。

自分というものを浄化し、向上さす上においては、つねに省みて、至公至平に自分というものを見つめることを怠ってはなりませぬ。そして、角をとるよう、欠点や性癖をなおすようにと注意せねばなりませぬ。

そして、われと吾が心の動き方(行動に対する動機)をよく見つめ、審判して、公平無私でなくてはなりませぬ。

この場合、良心の許容せぬことをなしたならば、それだけ罪になります。

『信仰覚書』第六巻 信仰は体験で固まる 出口日出麿著

【これまでの振り返り】


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