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「ちいさな心がけと因果法則」

みたまの向上の道程においては、苦難をよろこび、一難ごとに新しい世界を開く考えで、苦難そのもののために

心を苦しめ悩めず、神第一に、あるまま、なるままを嬉しみつつしんで、もし人が尻を拭けといったら、ああこれで一役すんだという気になり、ころげて足をすりむいたならば、ああ有難い、大難を小難ですましていただいた、という気になって、すべてを見直し聞直してさえおれば、次第にみたまは向上してゆくものだ。それを、一々はかなみ、恨み、ねたみ、怒り、疑い、泣きしているから、表面どんな善いことをしても、泣き泣きしたことは、悲しい結果におわるだけであり、恨みつつしたことは恨みの凝固にすぎない。

世人はみな義的の行為のみに留意して、それに篭っている霊を忘れている。いな、全然気がつかないのである。表面上、小さい汚いことにでも非常な霊的神業になっていることもあれば、表面は大きな仕事でも、理的には地獄の追加にすぎないことも多いのだ。

考えてみるがよい。おなじ者を与えるにも、甲は「これだけの物をやっておけば、またいつか返してくれるだろう」と心中考えており、乙は「あいつにやるのは嫌だけれど、いま機嫌をとっておかねば悪いから」と考えているし、丙は「とにかく、可哀そうだから、これをやろう」と思ってやる。

すなわち、同一の行為でも、それに篭っている霊はそれぞれ異なっている。だから、それを貰った人は、それぞれ異なったお蔭を受けることになる。

神さまにお供えするにしても、その想念次第で、神さまへはそれぞれ別々にひびくことになるのである。外的の言語動作のみを云意している間は、その人のいまだ体的である証拠である。

すべて内義をつかむ。うかむ迄にいたらなくてても、感ずることが必要だ。

ことさらに人を裁かなくても、自然に神によって、いな、その人自身の因果法則によって、軽いものは軽く、重いものは重く裁かれるのである。

『信仰覚書』第六巻、さばきは因果法則で、出口日出麿著

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