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【人生ノート 230ページ】 自分が近寄っただけ、神さまは近よられるのである。自分の想念から「神」が去っただけは、神さまから遠ざかってゆくのである。
想念につねに神を
因果法則は神律である。努力しただけの効果である。自分が会得したよりほかに、糊でひっつけたりメッキしたりは、決して永久的になし得ることではない。
一日神さまは、祈りに応じて、上へ引きあげては下さるけれども、まだそれは真の会得の結果ではなくして、一時、応急手当として救いあげて下さったまでであるから、そこでその人が、神の慈悲に感泣して、
よく堪えしのび、修業をするならば、はじめてそこにおれる正しい資格を与えられるが、もし慢心が出て、自分はもう完全にここにおるだけの資格があるのだと思い込んだりすると、ながく苦しまねばならぬことになる。中には、いつまでも悟るあたわずして、ついにあと返りをせねばならぬ破目になったりするのである。
神さまは仁慈無限であって、いろんな手段をもって、われわれ現界人の魂を救済されんとしているのであるから、われわれにおいても、よくこのことを知って、あくまでも積極的に努力忍耐して、内省また内省、常に張りつめた心で自分を磨きあげるように努めねばならぬ。
自分が近寄っただけ、神さまは近よられるのである。自分の想念から「神」が去っただけは、神さまから遠ざかってゆくのである。
このことをよう思いみて、念々神をはなれず、自己の魂全部を大神さまの直前においているような気持でおらねばならぬ。それは無論、神を忘れている人たちへも、一様に救いのみ手はさし伸ばされるのではあるが、しかし、早く覚醒した人は、それだけ早く容易に上位にあげられるが、いつまでたっても「神を」を気づかぬ人は、
それだけ長く苦しむことになるのである。
何事をする際にも、瞬間といえども「神」を念じ「神」に祈ることを忘れてはならぬ。それがわれわれにとっても、もっとも大事なことである。
それからもう一つは、あくまでも積極的にいろんな局にあたって、その機微を悟らねばならぬ。消極的では、いつ迄たっても体験を得ぬから、会得することがなく、したがって、向上進歩がない。苦しい場合でも積極的に、忍耐する時でも積極的に、心を精一杯に張りつめて、どこまでも気張って気ばり通さねばならぬ。
積極的に仕事はしていても、内省力に駆けていてはなんにもならぬ。同一の愚をいつまでも繰りかえすことになって、悟るという時期がない。
かくのごとく、他力と自力、神と人、内と外とはどこまでも一致せねば、完全にはゆかないのである。
『信仰覚書』第五巻 想念に常に神を 出口日出麿著