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【人生ノートMagazine】念うところ世界なり

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人生ノートの中から人生の生き方や日々の生活に沿ったことについてに書いてあることに焦点を当ててまとめてみました。
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#日々

人生は報恩と知恩

自分のことを考えて見ても、自分はやはりなっていなかった、わがまま気ままものであった。 多少、近ごろになって有難さがわかりかけた。その意味で、この話は自分の一つの懺悔である。 有難さはわかっているつもりでも、有難さは沁み込んでいなかった。 天地の恩ということについても徹底しておらなかった。 私はこのごろになって、恩報じは少しでもせねばならん、人間の生活は報恩であると感じたのである。要するに、神徳の万分の一、神慮の百万分の一でもかまわんから、自分を今日にしてくれたものに対して報

自然に頭が下る人

相当の年齢にも達し、また相当の地位にもなってからでなくては、ほんとうの仕事というものは出来ぬと思います。 年の若い者が少々人より勝れた腕まえをもっていたとて、それを発揮しても、人は決してそれを快く受け入れてはくれません。 よし、目上の人に採用せられて上へ引きあげられても、自分の同僚やその他の者は容易に心服するものではありません。 また、自分がその地位にあらして、どれほど良いことを言い、また行ったところで、人はなかなかその言行そのもののみを見て批判してはくれずして、必ずその

好きな人

心の中に思いを溜めておくということほど悪いことはありません。つみは積みなりで、私はいまの世の偽善的道徳家よりも、むしろ思ったままを言い、かつ行う人の方が好きであります。 腹の中にかたまりを持っている間は、その人に接する者ごとにそのかたまりが感伝して、相手の気持を知らず知らず害しております。 いつ会っても腹の中にかたまりのない、さらりとした赤子のような人が一番私は好きであります。メッキした道徳家になりたくありません。 ○ 理屈を言わずにニコニコと笑いながら、人に好かれる

自己に負けている人

人生はお互いに思い思われて、なつかしく、ありがたく感じ合うところに本当の幸福がある。 ○ ものの成るかならぬかは、その人の一心になるかならぬかによってきまるものである。 ○ 自分で自分の悪い気持と戦うということは必要である。 こうした難関を一つ突破するごとに、少しずつ、一般的邪悪をも征服する力がついてくるのである。 つねに自己に負けている人は、いつ迄たっても霊的向上をなし得ない人である。 外的にも内的にも、つねに自分に楽な仕事ばかりしている人は緊張をかくから、役に

心の持ち方を変える工夫

悪人はないが、悪人になる人は少なくない。 それは要するに、利己からくるのだ。 いかに世の人々が自己本位なるかをよく察し、省みて見よ。 「あれは、自分のことを笑っているのではあるまいか」とか「あの人は、きっと自分を悪く思っている」とかいう類の邪推疑念に、どれだけ多くの人々が悩まされているか、けだし、思いなかばに過ぎるものがあろう。 「あいつ、おれの旧悪をあばくかも知れぬから … 」というので人殺しをした例が、どれほど多くあることだろう。 自分に少しでも不利益になるとみるや

神意とは内心の切実な叫び

無邪気な、淡泊な、かざらない人が一番よい。水のながるるように自然な、無理のない行動が一番ホンモノだ。 病気の人は、病身らしくしていたらよい。えらばりたい人は、えらばっていたらよい。何をするのも嫌な人は、 何もせずにいたらよい。みなそれぞれ、できるうる範囲で好きなようにするのがよい。 今日、西へ旅していても、明日、東へ引き返したくなったら引き返すのが本当だ。 人間智恵で計画したり、目標を立てたりするのは根本から間違っている。どうなることやら、一寸さきは人間には分からない

神のひとり子、出でよ

七むずかしい理屈を知っている人は仰山いる。しかも彼らは、何もなし得ない。せいぜい、書物をあらわしたりするくらいのものだ。 学識という点からいうと、キリストにどれだけの素養があったか。ナポレオン、ジャンヌダークにどれだけの素養があったか。 人間の魂を、直接、うごかすものは何か?それは、人間の、より偉大なる魂である。 理屈はもう結構だ。理屈を超越した偉人が出さえすればよい。目に一丁字なくて結構だ。目にもの見せてくれる真人さえ出れば文句はない。 こんな紛糾した世の中には

あたたかい心

理屈を好まぬおだやかな、ぼんやりとしたあたたかい心が神の心である。これに反して、落ち着きのない、冷やかな理屈っぽいのは、けものの心である。 人体は霊の宿泊所であって、自己の心と感応するいろいろな高級、低級霊を容れることが出来るのである。かように作られているのであるから致し方ない。だから、人は常に内心をつつしみ清めて、かりにも悪を思わないようにしなければならぬ。常に、われとわが心を省みて、悪魔のつけこむ隙のないようにしなければならぬ。 人とつき合っても、こっちから「あいつは

臨機応変の機転

人の気持ちをよく見ぬき、これをこわさぬように微細の注意を払わねばならぬ。 人間の悲憤歓喜は、決して、これという法則的な事象によるものではなくして、まったく主観的な各人、各処、各時独特なものであるから、臨機応変に処してゆく機転がなくてはならぬ。少しのことを気にして、ひとりで腹をたてたり、疑ったり恨んだりしがちなものであるから、よくよくお互いに気をつけ合わねばならぬ。特に商人などは、お客に不快な念をあたえぬように気をつけることが最も肝要である。 「あいつ、自分をバカにしとる」

公平に自他を観る

 自分を知るためには他人を知らざるべからず。周囲の人々と自分とを仔細に比較省察してみて、はじめて自分というものがクッキリと浮き出してくるなり。自分自身に自分がはっきりと分かってくれば、めったに、めくら滅法なふるまいはなきなり。適宜な道が進めるなり。進退、そのよろしきを得るなり。でしゃ張りもしなければ、怖じ気もせぬなり。 自分を知るということは、他人を知ることなり。他人を知ることは自分を知ることなり。 ○ どう考えても、お互いに容(ゆる)し合うということよりほかに、この世

心の持ち方

自己の思いよう一つで、より苦しくもなれば、より楽しくもなり得るのである。  誰だって、より楽しくなりたいと願わないものはない。そうなるためには、まず第一条件として必要なことは、いかなる境遇に出会っても、つねに心を愉快に、はつらつと持つということである。  境遇の変転というものは、決して、自己の思うようにはゆかぬものであるけれども、この心の持ち方というものは、修養ひとつで常に可能なことである。  世の中の八九分までの人は「自分は随分苦労した」というものであるが、要するに、

自己をかざるな

自分に何かひけめのある人は、こちらは何とも思っていないのに、自分でいろいろと案じ過ごして、その行動がなんとなく陰うつとなりやすい。 貧窮な人が富者のまえへ出ると、なんとはなしに相手を疑うような、呪うような、そして、つねに自己に対して侮蔑をあたえているかのように感じやすい。そのために両者のあいだに、いい知れぬミゾができてくるものである。 優者はつねに劣級の者を侮蔑するときまったものではないのであるが、劣級者の常として、優越者に接すると、すぐにこの心配をはじめ、ひいては自己を

何事も、自然にかえりさえしたら楽だ。

 いかなる理由あるにせよ、人に接して、はなはだしき悪印象をとどむるがごときは、よいことではない。その人を思い出すごとに不快を伴うごときは、自己の誤解も多少ありとはいえ、その人にもまた大半の罪はあるなり。  神の道を説く際にもよく注意して、相手の嫌忌するを、決して、強いて説くがごときことあるべからず。かえって、悪しざまに言わるるのみなり。  すべて何事も、きわめて自然に振るまうのが一番よい。なにを説き、なにを述べん、など考うるは逆なり。口から出まかせに言えばよいなり。はなは

霊は相手に応じて

 怒ったときは人は鬼であり、阿修羅であり、笑ったときは恵比寿さんであり、布袋さんである。  緊張すれば不動さんになり得、柔和になり切ればお地蔵さんである。  無限に永遠に心のままのわれであり、心のままの世界である。世界のすべてのことを知りつくすことも可能であり、すべてを忘れつくすことも可能である。宇宙、本来、定面積なく、定時間なし。現界はただこれそれを表徴しているのみで、単なる模型にすぎぬ。この単なる模型を一切として、これに執着するほど愚かなことはない。執着は遅滞であり腐