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心の持ち方
自己の思いよう一つで、より苦しくもなれば、より楽しくもなり得るのである。
誰だって、より楽しくなりたいと願わないものはない。そうなるためには、まず第一条件として必要なことは、いかなる境遇に出会っても、つねに心を愉快に、はつらつと持つということである。
境遇の変転というものは、決して、自己の思うようにはゆかぬものであるけれども、この心の持ち方というものは、修養ひとつで常に可能なことである。
世の中の八九分までの人は「自分は随分苦労した」というものであるが、要するに、この苦労なるものは、自己みずからが吾とわが心から製造して、吾とわが肩へのっけたものに過ぎないのである。
「あいつが憎い」とか、「ぜひ、こうありたい」とか「アアやりきれん」とか、いろいろとこうした種類の執着と誤解とを、毎日毎時、製造していては、いつまで経っても、「安心な」とか「気楽な」とか「おもしろい」とかいうことは来るはずはない。ちょとしたことを、やれ苦しいの、やりきれぬのと言っていた日には、この世の中は、ただの一秒間だって面白い時も楽な時もあるものではない。
苦労ということにも、ピンからキリまであるものであって、苦労した苦労したという人にかぎって真に苦労した人ではない。真に苦労しつづけた人は、もう慣れっこになって、今では決して苦労ともなんとも、大して考えていないのである。
首が半分ちぎれかかっていても、はな歌気分であり得る人でなくてはならぬ。弱虫にかぎって、すぐ人を恨み、世を呪うものである。
『信仰覚書』 出口日出麿著
これまでのお示し
自己をかざるな
https://note.com/azumanohikari/n/ncdbd80a60cd1
何事も、自然にかえりさえしたら楽だ。
https://note.com/azumanohikari/n/nc583a74fe1b6