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心の持ち方を変える工夫
悪人はないが、悪人になる人は少なくない。
それは要するに、利己からくるのだ。
いかに世の人々が自己本位なるかをよく察し、省みて見よ。
「あれは、自分のことを笑っているのではあるまいか」とか「あの人は、きっと自分を悪く思っている」とかいう類の邪推疑念に、どれだけ多くの人々が悩まされているか、けだし、思いなかばに過ぎるものがあろう。
「あいつ、おれの旧悪をあばくかも知れぬから … 」というので人殺しをした例が、どれほど多くあることだろう。
自分に少しでも不利益になるとみるや、すぐ悪人になってしまうのが世の常である。
自分に対して都合のわるい人を憎み害することのやまぬ限りは、世に争闘の堪える期はない。
他人のすること、なすことを悪くとって、うたがい恨んで、なんでもないことを自分ひとりでクヨクヨと胸をいためている世の中ほどバカらしく、まあ窮屈なものはない。
気の小さい人ほど、残酷なことをよくやるものである。なんでもないことを自分ひとりで気に病んで、もう、身も世もあらぬように迄に思って、その果て、わが身を殺したり、また他人を傷つけたりするものである。
こういう人にかぎって、少しほめると、すぐに、もう、この世の中で、吾ほど偉いものはないように思い出し、その反対に、すこし悪く言われると、すぐに、もう、自分はこの世に生きている甲斐がないように思い出すのだ。
実にこの世は、心の持ち方ひとつで楽しくもなり苦しくもなり、広狭、大小、明暗、自由自在になるのだ。
心の持ち方を変える工夫が一番肝心のことだ。
他人に対しても、だから、決して、その人格を傷つけるような言語動作があってはならぬ。
つねに見直し聞き直し、たとえ、いかなることに対しても、これを寛恕せねばならぬ。
いわゆる、その罪を憎んでその人を憎まずで、出来てしまったことで、すでにその人が悔悟していることなら、もはやこれを責める必要は毫もない。
いな、その上これを責めたら、かえって良くない結果をみちびくだけである。
人が、いかに、自己を悪く言わるることを気に病んでいるか、そして、これがために、とんでもない疑心暗鬼を、みずから製造して、みずからその毒ガスのために寿命をちぢめているかということをよくよく考え、察すべきである。
そして、お互いに信じ合い、心を許し合うて、楽しく暮らすように努力せねばならぬ。
出口日出麿著、『信仰覚書』第五巻、小心の人ほど残酷