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神意とは内心の切実な叫び

無邪気な、淡泊な、かざらない人が一番よい。水のながるるように自然な、無理のない行動が一番ホンモノだ。

病気の人は、病身らしくしていたらよい。えらばりたい人は、えらばっていたらよい。何をするのも嫌な人は、

何もせずにいたらよい。みなそれぞれ、できるうる範囲で好きなようにするのがよい。

今日、西へ旅していても、明日、東へ引き返したくなったら引き返すのが本当だ。

人間智恵で計画したり、目標を立てたりするのは根本から間違っている。どうなることやら、一寸さきは人間には分からない。しかし、神さまにはチャンと分かっている。

じゃ、人間の努力というものは無価値かというのか?いいや、決してそうではない。よく神意にしたがうか、したがわぬかによって、時間的にも空間的にも、神に近づく度が違ってくる。

人間的努力ではいけない。神意にしたがう努力でなくてはならぬ。人間的努力には苦悩がともなうが、神意にしたがう努力には愉快がともなう。各自の心からの叫びに、真に服従して行動するのは、すなわち、神意にしたがうのだ。

いまの世は、あまりに人間的である。神意にしたがう努力というものがチットもない。だから、苦悩がますばかりである。神意にしたがう努力というのは、切実なる内心の要求を、充分に満足せしむべく努力することだ。人間の心の底には、誰にも神が宿っている。切実なる内心の要求というのは永久の平和と栄えと光とに対するものにほかならぬ。

このことのために思考し、このことのために努力することは、神の喜びたもうところなるがゆえに、人に愉快となってあらわれるのである。

わたしは、先に、「えらぶりたい人は、えらぶっていたらよい」「何もするのもいやな人は、何もせずにいたらよい」といった。しかし、これは臨時の手段として「それでよい」といったまでで、そのことがほんとによいのでは決してない。その人は、そうしている間に、自分で「なるほど、おれが悪い」と悟ってきて、やがて他へ方向を転ずるーーそうしたやり方が、真の改心であると信じているからである。

まがった釘を真っすぐにするためには、金づちで打たねばならぬ。しかし、人間をため直すためには、断じて、他よりこれを強いてはならぬ。人間には各自に自主の心がある。この心が真に動くのでなくては、その人は真にため直るものではない。自己を自由にするものは自己であって、決して他人ではない。肉体は無理しいて往生さすことができるけれども、心はそうはゆかぬ。肉体にさえ刑罰を加うれば、

改心するものと信じている現代はわざわいなるかな。

自分で霊的につまずいて、自分で悟るのでなくては真の悟りではない。

どんな場合にも「わしはつまずいたのではない」と信じている人には、もはや、ほどこす術はない。

出口日出麿著、『信仰覚書』第四巻、神意とは内心の切実な叫び

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