自己をかざるな
自分に何かひけめのある人は、こちらは何とも思っていないのに、自分でいろいろと案じ過ごして、その行動がなんとなく陰うつとなりやすい。
貧窮な人が富者のまえへ出ると、なんとはなしに相手を疑うような、呪うような、そして、つねに自己に対して侮蔑をあたえているかのように感じやすい。そのために両者のあいだに、いい知れぬミゾができてくるものである。
優者はつねに劣級の者を侮蔑するときまったものではないのであるが、劣級者の常として、優越者に接すると、すぐにこの心配をはじめ、ひいては自己をのろい世を呪うごとき態度にでたがるものである。
誰だって、完全無欠のものはないのであるから、一生の中には、多少の失敗や恥さらしはあるにきまっている。しかしながら、しくじった時によく省みて、以後は、この失敗は繰り返すまい、また自分が犯しただけの罪は一さい自分が背負う、そしてまた、すんだことはもうクヨクヨ思うまい、という立派な覚悟に、瞬間になりうる人と、いつ迄も「ああ悪かった、あんなことをせねばよかったに、他人があのためにいろいろと自分を悪くいうだろう。なるべく大勢の人には知れずにすめばよいがナ、乙君の自分に対する態度が、なんとなくよそよそしくなっったのは、あのことを、誰からか聞いてからではあるまいか。C君は自分の今度のことを、あちこちへ言いふらしているのではあるまいか」というふうに、グジグジといつまでも男らしくない心配ばかりかさねて、われとわが身を苦しめ、ひいては、自分以外の人へも、暗いつめたい影をあたえている人とでは天地の差異である。われらは
あく迄も、前者の態度を学ぶことを心掛けねばならぬ。
『信仰覚書』 出口日出麿著