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推し・推されてこそ人生!推し活ブームから現代社会と人間の欲求について考える

こんにちは、水無瀬あずさです。

1月の後半に会社の友達と新年会をしたのですが、待ち合わせ前に少し時間があったので横浜駅の地下をぶらぶらしておりました。と言っても女子力皆無の私が向かうのなんてポケモンセンターかヨドバシカメラか本屋くらいでして、例にもれず有隣堂で本をひたすらに探しておりました。

その時にたまたま見つけた1冊の本が、今回ご紹介する『「推し」で心はみたされる?』です。 ※リンクはAmazonアソシエイトです

今回は、私が感銘をうけた『「推し」で心はみたされる?』の本についてご紹介するとともに、本を読んで昨今の推し活ブームに対して私が感じたこと、考えたことなどをまとめてみたいと思います。

イマドキの若いモンは、とか言うつもりもありませんが、流行っている現象や事象も排除することなく俯瞰して分析することによって、時代の大きな流れやうねりが見え、自分に通ずるところ、時を経ても変わらないものを発見できることがあるはず。そして結局、時代がどれほど移ろったとしても、人間って根本は変わらないもんなんだよなと改めて認識した次第です。これを読んだ皆さんも、「推し活」が流行る現代とはどのような時代なのか、社会なのかを立ち止まって考えるきっかけにしていただければ嬉しいです。最後までよろしくお付き合いください。


『「推し」で心はみたされる?』

推し活ブームが隆盛を極めていますが、そもそも「推し」って何なのでしょうか。『「推し」で心はみたされる?』によると、以下のように定義されています。

今、ちまたで言われる「推し」とは、「他のファンと一緒に応援しているキャラクターやインフルエンサー、作品やグループなどを指します。その「推し」を応援する活動のことを「推し活」といって、たとえば好きな作品のファングッズを買うのも、SNSやインスタグラムに「推し」を応援する投稿をするのも「推し活」に当たります。

引用元:『「推し」で心はみたされる?』はじめに

私的にはイマイチ「推し」って言葉がピンと来ていなかった部分があります。だって私はピカチュウもマホロアちゃんもゲームもマンガもビールも飲み会も好きだけど、そしてそれを「好きーーー!」ってnoteとかでひたすら喚き散らしたりはするけど、それって別に「推し」じゃな気がしていて。なんでなんだろな?って思っていたんです。

本によると、推しとは「誰かにその気持ちを伝えることができ、さまざまな形で応援したいと思える人物やキャラクター(引用)」であると書かれています。なるほど、私はマホロアちゃんのことが大変に好きだけど、それを誰かに共感してほしいとか、マホロアちゃん(と制作会社)を応援したいとかはあまり考えていません。純粋に「目に入れば幸せ」なだけで、誰かと共有したり、マホロアちゃんのために!って思ったことはないのです。

おそらく本物の「推し」であれば、マホロアちゃんがもっと人気になるようにSNSで布教活動を!とか、制作会社の売り上げがもっと増えるようにグッズをいっぱい買おう!とかなるんでしょう。いや、そういうの興味ねえな。つまり「推し」とは、対象のためを思って、対象の幸せや喜びのために金銭的・肉体的に応援できることであって、私の「好き」はやっぱり「推し」ではなかったんだなあと感じました。私の場合、「私が好きだから!」が最初に来ていて、あくまで自分本位なものでしかないんだよな。

そんな感じで、昨今ブームとなっている推し活について、冷静に客観的に、でも心理学的に分析されているのが本著『「推し」で心はみたされる?』です。「推し活すごい!」「推し活いいね!」「全くイマドキの世の中は・・・」とかではなく、専門的なお医者さんが、きわめて真面目に「推し」「推し活」について分析するという視点が非常に興味深く、そして面白かったです。

著者は熊代亨さん、精神科医・ブロガーという肩書がある方で、私は本著で初めてお名前を知ったのですが、なかなかにオタクやサブカルチャーに理解の深い方だなと感じました。昔と比べるとオタクに対してずいぶん寛容な世の中にはなったものの、やはり行きすぎちゃっているダーティなオタクに対して世間はなかなかに冷たいものですが、そういうのを一切感じさせない温かさが本から感じられました。オタクばんざい。

推し活ブームの現代に感じたこと

ということで、『「推し」で心はみたされる?』を読んで私が考えたこと、感じたことなどをまとめてみたいと思います。

「推し」もシェアリングエコノミー

SNSが登場する前、誰かや何かを好きと表現するのは「推し」ではなく「萌え」でした。

男性オタクが「萌え」と表現するとき、それは対象となるマンガやアニメのキャラクターを好きなだけではなく、「その女性キャラクターに好かれたい願望が含まれがちで、そうでなくとも自分とキャラクターが一対一の関係として想定(引用)」されていました。だからこそ抱き枕などというアイテムが登場し、キャラクターを「俺の嫁」などと表現したりするのです。そして大変辛辣なコメントだと感じましたが、「萌え」には「男性が女性キャラクターを選ぶことはあっても、女性キャラクターが男性を選ぶという視点が欠落している(引用)」のです。確かに、極めて一方通行な感情。切ない。

これに対して、「推し」は気持ちの第三者に対する開かれ方がまったく違います。みんなで・やや遠い距離から応援する「推し」は一対多の関係であり、だからこそ「尊い」などと自分よりも地位が高いような表現が使われるのです。

そう考えると、現代ってモノだけでなく、「好き」「応援したい」って気持ちさえシェアする時代ってことなのですね。なるほどつまり、「推し」ってのもシェアリングエコノミーのひとつなんだ。どおりで現代の世相と非常に合致するはずだわと、妙に納得してしまいました。ならもう、推し活さえSDGsと言えるのかもしれない。みんな、自分だけじゃなく、誰かと分かち合いたいんね。

時代は承認欲求から所属欲求へ

本によると、21世紀の心理的トレンドについて、SNSが流行する前の「萌え」の時代、SNSが流行したばかりの「いいね」の時代、そして現代の「推し」の時代と大きく3つに分類しています。

そしてこの3つに関して、心理学者アブラハム・マズローの欲求段階ピラミッドに当てはめ、「萌え」「いいね」は承認欲求、「推し」は所属と愛の欲求であると紹介しています。

出典:マズローの欲求5段階|ダイヤモンド・オンライン

承認欲求とは、「他人から褒められたい、認められたい、いっぱし扱いされたい、注目されたい、等々の、他人から自分に向かってポジティブな目線をもらいたい、そのような欲求(引用)」です。個人主義社会においてはスキルアップや努力のモチベーション源とされますが、昨今ではSNSで「いいね」をやたら欲しがる人、意識の高い投稿ばかりする人などに対してはしばしば「承認欲求強すぎ(笑)」のように揶揄的に言われることのほうが多い気がします。

一方の所属欲求は、「みんなで集まって同じ方向を向いていたい、仲間意識を持ちたい、群れていたい、といった欲求(引用)」のことで、まさに「推し」そのものといった感じですね。でもどちらかというと私は、かつての日本の古き良きムラ社会というか、そういうのをイメージしました。考えてみれば、「推し活」って日本人の気質にピッタリじゃんね。そりゃ流行るわ。

さかのぼってみれば戦後の日本は、「個人としては目立たず、自立せず、承認欲求をあまり充たせなくても自分の会社に誇りを持ち、そのメンバーとして活躍できれば、それはそれで心理的に満たされた」という時代がありました。まさに24時間戦えますかの時代ですね(「24時間戦えますか♪」というCMソングを息子たちに教えたら、「なにそのブラックな歌。こわっ!」と言われ、なんかちょっと凹みました)。

つまりそういう所属欲求の時代があり、21世紀に入り承認欲求の時代があり、2020年代になり所属欲求に逆戻りしたってことですね。うーん、まさに時代は繰り返すってやつです。ただかつての所属欲求と今の所属欲求では、「どこに所属する」「誰に忠誠を誓う」といった度合いが全然違うと本にか書かれています。確かに推しはライトというか、まあ軽いですね。昔はおいそれと所属先を変更できなかったけれど、今は誰を推す・推さないの選択の自由がきき、簡単に乗り換えられるというのは大きな違いと言えます。

「推し」も「いいね」も結局自己愛

マズローの欲求ピラミッドに次いで、本ではハインツ・コフートという精神学者の考え方を紹介しています。コフートは、学者であるマズローとは違い、精神的に問題を抱えている患者の解決策を医者の立場から考え、ナルシシズム(自己愛)の研究で有名になった人です。

コフートによると、「心理的な充足体験をもたらしてくれる対象、ソーシャルな欲求を満たしてくれる対象を、まとめて自己対象と呼び、それを主に鏡映自己対象と理想化自己対象のふたつに分類(引用)」しました。理想化自己対象とは、まさに自分の理想となるロールモデルを引き受けてくれる対象のこと。鏡映自己対象は、鏡に映った自分に充足感をもたらしてくれるということです。

「いいね」をたくさんもらった自分スゴイ、みんなから「おしゃれ」「キレイ」って言われている私ステキ、中二病にふけっている自分カコイイ、そういうやつですね。これをさきほどの「萌え」「いいね」「推し」に当てはめるなら、「萌え」「いいね」は鏡映自己対象、「推し」は理想化自己対象ということになります。

そしてコフートは、このような自己対象を通して心理的に充たされる体験は「ナルシシズムが満たされる体験」であり、これを自己対象体験と呼びました。

マズローとコフートの違いは、マズローは人間のモチベーション源として承認欲求や所属欲求と言う分類はしましたが、実はそれには熟練度があって、人によってレベルが違うことを度外視しています。コフートは医者としてこのレベルの違いに注目し、メンタルヘルスに問題がある人はナルシシズムの熟練度が低い人、つまりナルシストであるとみなしました。

つまり。つまりです。承認欲求や所属欲求、「萌え」「いいね」「推し」を求める人は、総じてナルシストということです。足りていないのだ。わあ。

何となくなんですけど、ナルシシズム、ナルシストって聞くと、「自分大好き!」って印象を受けますが、コフートの理論によると、「自分大好き!」ってうまく表現できない人こそがナルシストであるということです。なんか不思議。

でも考えてみれば、人間なんて欲求の塊。自己愛の塊です。誰かに認められたい、何かを分かち合いたい、どこかに所属したい、どれも形は違えど自己愛。「私」という存在を、自分のなかに、誰かのなかに、社会のなかに刻み付けたいという強烈な欲求なんだなと思いました。考えてみれば、私が働きたいと考えたときの「社会に属していたい」っていうのも、強烈な承認欲求だったんだなあ。

大事なのは幼少期の親子関係

幼少期に親や親の代わりとなる人と愛情を与えられながら関わり、父親や母親を自己対象にして成長すれば、ナルシシズムも自然と成熟していくものだとコフートは言います。

コフートに言わせると、ナルシシズムの「旬の時期」は、鏡映自己対象体験が2~4歳、理想化自己対象体験が4~6歳で、その時期にどれだけ充足感をみたせるかが重要なんだそうです。小さい頃は「褒められて伸びる」ものですから、たくさん褒められることで充足感を覚えるのが鏡映自己対象体験。成長するにしたがって、親または親代わりとなる人が「絶対的な理想像」になっていく、これが理想化自己対象体験。確かに子どものときって、「パパ(ママ)みたいな○○になりたい」ってよく言いますよね。実はそういうのが、子どもの心理的発達には欠かせないものだったらしく、「なるほど!」となりました。理にかなっている。

そして理想化自己対象体験のあと、子どもは親に対して少しずつ「あれ?思っていたのとは違うぞ」という「適度な幻滅」を体験していきます。この人は理想とはなんか違う、それでもこの人のことが好き!大切!って思う体験を通じて、ナルシシズムが育っていくというのです。欠点さえも認めるから一緒にいられる、親友や夫婦関係も同じですね。まるごとすべて相手を認めてあげられる、その懐の広さを養うのも、ナルシシズムには大切なんだと感じました。

しかし忙しい現代人の生活において、両親は共働き、核家族化して祖父母とも疎遠な状況では、親から溢れるほどの愛情を注がれながら成長することは難しいかもしれません。また上記の「適度な幻滅」を経験することない遠い関係ばかりを続けていると、相手に理想ばかりを押し付けてしまい、欠点を許容できない人間になってしまうかもしれません。

そんなふうにナルシシズムの成長が不十分なまま大人になると、承認欲求や所属欲求を過度に求めるナルシストになってしまいます。SNSの反応がいちいち気になる、推し活にお金をつぎ込みすぎているという人は、幼少期のナルシシズムの成長が不十分だったのかも?

ただコフートによると、ナルシシズムの成熟は生涯を通じて続くとも述べられています。幼少期はベースが作られるけど、大人になったから終わりではなく、この先死ぬまで成熟していくということです。「もしかして自分はナルシシズムが成長していないのかも?」と心配になった人も、この先いくらでも成熟する機会はあるということなんですね。人間日々成長。

承認欲求も所属欲求どちらも必要

ナルシシズムっていうのは自己愛であり、決して悪いものではない。だからこそ承認欲求、所属欲求どちらも満たされなければ、真の豊かさは得られないものです。ナルシシズムが何らかの形で未成熟だって、「いいね」「推し」を良い感じにバランスを取って行けたら、それはそれで幸せなんじゃないの?と思います。

たとえば幼少期の家庭環境に何らかの問題があり、承認欲求がやたら強くたっていいじゃないか。「いいね」の数で精神的なバランスが取れるなら、それだけでSNSに価値があると思います。日常生活に潤いがなくて推し活に励む人も、それでバランスが取れるならwin-winで素晴らしいと思います。ただ問題は、「行きすぎないこと」ですね。

本にも書いてありますが、昨今の推しはビジネスに直結している側面があり、踏み込みすぎると泥沼にはまってしまう可能性があります。「行きすぎ」といっても人によって程度は違うものの、周りに迷惑をかけない、自分が精神的肉体的に問題なく日常生活が送れるレベルを維持することが大切なのかなあと思いました。

平凡な日常で欲求が満たされる幸せ

ナルシシズムが満たされている人は、「いいね」やSNSの反応にこだわったり、推し活にのめり込むことなく、推しと上手に付き合っていけると本に書いてあります。

自分について振り返ってみると、noteでたくさんの人に読んで欲しいとは思うけど、そこまでSNSにのめり込んでいないつもりだし、正直推しとかどうでもいいしで、ああ私って割と欲求は充たされている気がします。そしてそれは、両親がしっかりと愛情を持って育ててくれた証拠でもあるんだよな(多少偏ってはいたけど)。父も母も今となっては大変な感じになっているけど、これからまだまだ感謝の気持ちをたくさん伝えなきゃなと思いました。

そして今、夫と子どもたち、4人で何気ない日常に満足できているのは幸せなことだなとも感じます。些細なことで笑い合い、ケンカしても仲直りして、失敗しても補い合い、そうやってお互いが自己対象として認め合えていると信じたいですね。私は家族によってナルシシズムの充足感を充たせているんだと思います。まあ我が子たちを見ていると、少なくとも自己肯定感は異様に高いんですが、子どもたちのナルシシズムの成熟に関してはきっと彼らが成長した時に答え合わせができるのかな。

良く推し、良く推されて、良い人生を

遠くのインフルエンサーを推し、近くの友達や上司を推し、そうやって上手に推しを推すことで私たちの充足感は充たされていきます。遠くの推しに課金するもよし、近くの推しの良いところを見つけて真似したり、良くないところを見つけたけどそれでも相手を認めること、そういう当たり前の推しの日常のなかで、きっと人生って豊かに磨かれていくんだと感じました。

「良く推し、良く推されて、良い人生を」―これは、本の最後のほうに書かれていたフレーズです。いい言葉だなと思ったので、共有させていただきました。

私は別に推しと感じる対象が居るわけではなかったけど、この本を読んでいて、実は気づかないうちに身近の家族や友達を推していたのかな、とも思いました。良好な人間関係の陰には、きっといつも推し推される関係がある。私もたくさんの人に推されるような、良いところも悪いところも認めてもらえるような人間でありたいし、そのためにこれからまだまだ成長していきたいと感じました。

結び

考えるままに書き連ねていたら、ずいぶんと長くなってしまいましたが、たまたま出会った『「推し」で心はみたされる?』の本を読み、推し活というトレンド感の強いワードから、さまざまなことを考えるいい機会になったと感じています。こういう本との出会いがあるから、本屋って大好き。Amazonで本を探すのとは違う、宝探しのようなワクワク感がありますよね。また意外な本と出会い、思考のきっかけにできればいいなと思いました。興味のある方はぜひ読んでみてくださいね。

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