
感情の言語化とその習慣化について
感情を言語化すること。この環境を活かして定期的に実践してきましたが、個人的にまだしっくりきていません。
どうしても、綺麗な文章としてまとめないと、実際にアウトプットできないところがあります。未だに他者からの批判が怖いのでしょう。
ノートに感情を書き出すこと。まずは、その練習を繰り返すことから始めることにしました。
言葉(文章)を整理して書き出すことは、どちらかと言えば「理系」の領分だと思います。一方で、素の感情を言葉として引き出すことは「文系」の領分でしょうか。
その両方を合わせた文章術の練習。それは、自ら束縛してきた心の解放でもあります。

ノートに感情を書き出す練習
人間である以上は、多かれ少なかれ感情の揺らぎが存在します。
だからこそ「その時に現れた感情を忘れないうちに言語(言葉)に落とし込むこと」を様々な人が言うのでしょう。人間は忘れる生物だから。
理系の道ばかりを辿りすぎたのか、自分はメモを残す意識があるとしても、無機質な情報ばかりを羅列してしまいます。

自分のプライベート込みのフリーノート(手帳)を今年から持ち歩くことにしました。今月はカラオケの目標などの話を1ページだけ書きました。
本当は自由で気のままに色々なことを書きたい。でも、優等生のスタンスが抜けないからか、整理された文章ばかりを書こうとしてしまう。
感情の言語化の練習として、まずはこのノートを開くという初歩の行動から。そこから、継続して習慣にまで持ち込みたいです。

感情を揺さぶる時間を作ること
前回から使い始めた「AIアシスタント」に、記事のアイデアを募集してみました。
感情の言語化において、非言語的な要素を取り入れることで、感情をより具体的に表現する手法を提案する。例えば、音楽や絵画、動画などのメディアを使って感情を表現し、視覚や聴覚を通じて感情を理解することを目指す。
確かに、音楽や絵画(映像)に感情を揺さぶられることを望んでしまう自分がいます。これが非言語の要素を取り入れる意味なのでしょう。
それこそ、感情が揺さぶられるタイミング(きっかけ)はいくらでもあります。例えば、様々な景色を眺めるにしても、自分は常に現地に行くことが絶対だとは思いません。もちろん、現地でしか味わえない感動もありますが。
それこそ、近年は映像技術(プロジェクションマッピングなど)も発達しています。個人的に「綺麗な景色を見たい」というのは、それこそ、身近な場所でも十分に叶う事柄になりました。

感情を揺さぶるための時間を確保する。それは、過去の自分が一生懸命に抑え込んできた素の感情を蘇らせるための行為なのかもしれません。
人間は自分の人生に苦痛を感じている時ほど、自分を無にすることで安定を保とうとする。そんなことを誰かが仰っていました。
自分もそんな時期を20代で過ごしてきた。この頃の受けた傷は今なお癒えてなどいない。そういう意味でも、感情の言語化は自分自身の人生を再建するために必要不可欠な行動なのです。

おわりに
これまでは理系の領分として、理路整然な文章ばかりを書き続けてきました。その経験自体は現在の仕事に活かされていますが、その型に固執する自分も強まるのを感じていました。
この行動を「理系」だけに固執してきた自分を解放するための一歩に。そして新しい未来を創る契機にできればと思います。
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最後まで読んで頂き、ありがとうございます。この記事があなたの人生の新たな気づきになれたら幸いです。今後とも宜しくお願いいたします♪♪
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