人間死んだらどうなるか/スマナサーラ長老
1996年12月09日かやの木会館で収録されたアルボムッレ・スマナサーラ長老のご法話。
あの世はあるのか、霊魂は存在するか、輪廻転生の仕組みとは、神(創造主)の存在の是非など、私たちが「今を生きる」ために知っておきたい仏教の基礎知識。
0:00:00 「死んだらどうなるか」というテーマについて
0:10:51 魂を探すための実験
0:21:26 ブッダは「我々はどう生きるべきか」を教えた
0:32:21 死後があっても無くても善行為すべき
0:42:46 人間らしい生き方/人間を超える生き方
0:57:23 ワンパターンの人生で満足ですか?
1:07:04 死んでも消えられない理由
1:18:04 死ぬ瞬間に何が起こるのか?
1:36:03 地獄の次元
1:45:51 餓鬼道の生命
1:48:56 神々の栄養源
1:54:02 欲がない喜びを味わう
2:03:58 心の栄養源を吟味すれば死後も幸福になれる
動画内容まとめ
よろしくお願いします。今回のテーマは、「私たちが死んだ後、何が起こるのか?」です。私自身もこれまでこのテーマに深く考えてこなかったのですが、それについて考える時間が来たようです。
それぞれの人がどう考えるかは個々によるものですが、鈴木さんは来世や転生といった概念について様々な見解を示しました。これは私にとっても有意義な議論で、違う視点から物事を考えることができました。
世界中には多様な宗教が存在しますが、そのどれもが「死後に何もない」と主張する宗教はありません。それは興味深い事実であり、人々が死後の世界についての認識を持つ理由を考察するきっかけとなります。
たとえば仏教にはさまざまな宗派がありますが、いずれの宗派も死後の世界を否定するものはありません。それどころか、他の宗教、ヒンドゥ教やキリスト教を含め、死後の世界についてはよく話し合われます。
そこで疑問が生じます。「本当に私たちが死んだ後、何が起こるのか、それはどのようにして確定しているのでしょうか?」私自身もその答えを持っていません。しかし、宗教を教えている人々はそれを明確に理解しているかのように語ります。私たち人間は、自身の死後に終わりが来ることを望まないと考えられます。だからこそ、私たちの深深の願いに対する慰めとして、各宗教がその教義を築いているのでしょう。
また、ヨーロッパ的なキリスト教の観点から見ると、「神を信じる者は全員が特別な場所、天国に連れて行かれ、二度と死ぬことなく、楽に生活できる」と言われています。一方で、「神を信じなかった者は全員地獄に落とされ、永遠の苦しみを味わう」とも言われています。このような教義に従うことで、私たちは死後も生き続けること、そして永遠の喜びを追求することを選ぶのでしょう。
同様に、イスラム教の視点から見ると、唯一神であるアラー以外を信じることは許されないとされています。その観点からは、日本人は全員が地獄に落ちると言えます。日本人は神社や美しい大木、日の出などに対して尊敬の念を示す習慣がありますが、これはイスラム教から見れば誤った信仰とされ、許されない行為となります。
以上のように、死後の世界については多様な視点が存在します。それぞれの宗教や哲学が示す答えは一貫しており、それは「人間は死にたくない」という願いが基にあると考えられます。しかし、具体的な死後の世界の形象は、それぞれの信仰や哲学によって大きく異なります。
日本人は、美しい自然や壮大な山々を見ると、心から感謝や敬意を表す習慣があります。それは素晴らしいことですが、イスラム教徒から見ると、そのような行為は禁止されているとも捉えることができます。西洋の宗教では、「信じなかったら地獄に落ちる」という強硬な主張が見られますが、東洋の宗教では、そういった過激な主張は少ないです。
では、死後に何が起こるのかという問いに対して、私たちは真実をどうやって確かめることができるでしょうか?答えは「自分自身が死んでみること」です。しかしながら、問題は、一度死んでしまった人たちは私たちに何も教えてくれないという点にあります。それにも関わらず、私たちは何かしら死後に存在するものを信じる傾向にあります。
ここで、「長部経典」というパーリ聖典に登場する唯物論者の話を紹介します。この人物は、人間は物質だけで構成され、霊魂や心といった概念は存在しないと主張していました。ある日、彼は托鉢している僧侶を見かけ、彼に「人は死後どこかに生まれ変わるというのは馬鹿げた話だ」と話しました。そして、「人は死んだら、その身体は地水火風に戻るだけで、それ以上の何ものも存在しない」と主張しました。
彼は、この考えを証明するために、死刑になった人の処刑場面で実験を行いました。一つ目の実験では、処刑の瞬間に霊魂が身体から出ていく様子を探しましたが、何も見つけることはできませんでした。二つ目の実験では、人間が死んだ時に体重が減るかどうかを調べましたが、死体の方が重かったのです。
彼の結論は、「何かが体から抜け出して再生するなら、死体は軽くなるはずだが、実際には逆に重くなる」というものでした。その後も彼は多くの実験を行いましたが、それらはあくまで仮説を立証するためのもので、実際に再生が存在するか否かについては確定的な結論は出ませんでした。
仏教徒が作ったこの経典において、彼の考えが紹介されることによって、様々な宗教の再生論が間接的に問われていると解釈することもできます。
私たちは、「アートマン(我、魂)」という概念について考えることがあります。それは心の中に住む魂のことで、ヨーガの世界では「パンチャ・コーシャ・アートマン」として語られることがあります。これは、魂に五つの身体が存在するという考え方です。それぞれの身体は鎧のようにアートマンを覆い、最も内側に真の我が存在するとされています。
ある実験者が、人間が死ぬときに魂が抜けていくという考えを検証するために、人を処刑し、皮膚を剥ぎ取り筋肉を切りつけるという恐ろしい実験を行いました。しかし、人間が死ぬまで、彼は魂を見つけることができませんでした。その結果、実験者は「死後の何か、再生や別の世界があるというのは嘘だ」と結論づけました。
このエピソードは長部経典に記されていますが、結論部分は不明確で、疑問が残されています。それでも興味がある方は長部経典をご覧になってください。
仏教における死後の世界の存在について、各宗派により異なる概念が存在します。例えば、私の所属する宗派では「極楽浄土」の概念がありますが、それはテーラワーダ仏教など他の宗派では異なるかもしれません。しかし、今日の話の本題はそういった宗派間の違いではなく、死後の世界が「あるならば」何かを探求することではありません。
重要なのは、お釈迦様自身が死後の世界についてはそれほど強く語らなかったことです。お経では死後の話よりも、「我々はどう生きるべきか」というテーマが圧倒的に多く取り扱われています。
中部経典にはAPAṆṆAKAというお経が存在します。APAṆṆAKAは「問題にならない」または「選択の余地がない」という意味で、お経の中では人間が死んだ後に何が起こるのかという問題を考えるよりも、人がどのように生きるべきか、どのように行動するべきかに焦点を当てています。
それでは、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか?答えは、十悪を避けることです。殺生、盗み、邪行、嘘、悪口、他人を叱る行為、他人に損害を与える行為、怒り、強烈な欲望、これらは全て我々が避けるべき行為です。それが我々が生きるべき道であり、重要な教えです。
皆様、僕が使う仏教用語については大体ご理解いただけると思いますが、一応意味も説明します。ただし、覚えすぎると「自分が知っている」と思い込んでしまい、それが脳細胞を働かせなくします。脳細胞が働かないと意味がないので、覚えにくいように話します。用語をどんどん出して話すのは私にとっても楽ですし、時間をコントロールすることも可能ですが、秒単位で避けるようにします。
とにかくある人が「十悪」を犯している、つまり殺生や盗み、邪行、嘘、悪口、無駄話、噂話、強烈な欲や怒りを抱き、危険な哲学や思想を持ってそれを世界に広めている、と仮定しましょう。この行為は、仏教用語で「邪見」と呼ばれます。そのような人たちが、仮に来世が存在しない場合、彼らはこの世でどのような結果を受け入れるのでしょうか?
このような行為をする人たちは、社会から厳しい批判を受けます。彼らは「人間ではない」「悪魔そのもの」「恐ろしい存在」などと言われ、他人から避けられます。その結果、彼らがどこかに家を借りたとしても、周囲の人々に追い出されてしまうでしょう。殺人や窃盗を犯すと、この社会で生きる権利さえ失われてしまう。それにより、自分の命までも失う可能性があります。
では、来世が存在した場合、彼らはどうなるのでしょうか?もし来世があったとすれば、彼らはこの世で受けた苦しみ以上の「悪趣」(苦しみの世界)に落ちてしまうことでしょう。その結果、彼らは二度負けることになる。この世でも次の世でも。
それに対して、殺生をせず慈しみの心を持ち、盗みをせず他人と物を分かち合い、邪な行為をせず欲をコントロールして正しく生き、嘘をつかず真実を語り、噂話をせず平和を願う言葉を使い、無駄話をせず意味のある言葉を話し、余計な怒りと欲を捨てて危険な思想を持たず正しい考え方を持つ人はどうなるでしょうか?
皆さんから見て、その人は信頼できる素晴らしい人として認識され、褒められます。その人の現世の人生は幸福に満ち溢れていくでしょう。仕事でも社会でも何をしても、皆から信頼されるからです。そして、もし来世があったとすれば、その人は素晴らしい場所に生まれ変わるでしょう。その結果、その人は二度勝つことになる。現世でも次の世でも。
だから結論としては、来世があるかどうかは問題ではない。大事なのは、あなたが現世でどのように生きるか、です。ですから皆様、来世があるかどうかにこだわらず、あなた自身の生き方に注目してみてください。
素晴らしいのは、来世があろうがなかろうが正しさを追求する人です。不正行為を犯したり、不倫したりする生活は誰でも可能です。しかし、それは素晴らしくありません。素晴らしいのは、証明できない思考に頭を悩ますことなく、確固とした正しい生き方を選ぶことです。
たとえば、お寺は経営が難しく、信者に対して寄付を求めることがよくあります。寄付をしている人は、現世に起きる利益と来世の利益の二つを期待しています。しかし、あくまで寄付は、利益を求める商取引ではなく、自分ができる良い行いをするためのものです。来世があるか否かにかかわらず、人々を助ける行為が本当に素晴らしいことです。
困っている人に対して、来世があれば食事を提供すると言うのはおかしいです。困っている人を助ける行為は、その人が苦しんでいる現実に対応するべきで、その時点での正しい行為です。
結局のところ、仏教のどの宗派でも、我々が今、この瞬間にどう生きるかが大切です。そして、それが立派か否かを問うべきです。その結果、我々は立派に生きること、人間らしく、時には人間を超越する生き方に挑戦することを選びます。
もし来世があれば、その善行によって二度勝つことになります。しかし、食事と睡眠だけに人生を費やしては、何も大切なことは達成できません。働くこと、家を持つこと、結婚し子どもを持つことは、全て重要ですが、それらは我々が生きるための基本的な行為であり、ヒトだけでなく、動物も同様に行っています。
しかし、我々がより高い目標を持つべきです。私たちは高層ビルを建てることができますが、同時に私たちの知恵が猿以下だという現実も直視しなければなりません。最も賢いはずの人々でさえ、銀行の経営を失敗させ、大量の貯金を失ってしまうことがあります。
そのため、自分たちが「生きている」ことを自慢するのではなく、自分たちの行動とその結果を常に見つめ直し、より良い生き方を追求し続けるべきです。
人生は予期せぬ出来事によって一変することがあります。例えば、子供や配偶者が突然亡くなる事故が起こったら、誰もが精神的に混乱します。そんな時、人々は往々にしてお寺に助けを求めてきます。お坊さんの役割は、そうした人々を慰め、精神的な支えを提供することです。これは二千五百年以上にわたって続く我々の使命であり、大変な仕事であることは理解しています。
しかし、誤解してはならないのは、我々が助けられるのは人間らしい生き方をしている人々だけです。お金がないからと人を騙したり、無理に儲けようとしたり、自分さえよければという心で行動する人々を助けることは難しいのです。なぜなら、そのような心は人間よりも低いレベルにあると思います。私たちの中にある心は高いレベルを求めているのです。
例えば、証券関係の仕事をしている人が不適切な情報を利用してお金を得たり、政治家が自分の権力を使って不適切な報酬を得たりすることも、その範疇に含まれます。また、訪問販売をしている人が効果のない商品を高額な薬だと偽って売ることも同様です。
しかし、我々が常に心に留めておくべきなのは、我々自身も時として人間「以下」の行動を取っていることかもしれないということです。我々は人間「等しい」ことを目指して行動するべきです。動物は泥棒をしません、だから我々もそうあるべきです。
例えば、野良猫が盗んでいると思うかもしれませんが、それは間違いです。野良猫はただ、自分で仕事をして餌を得ているだけなのです。だから、我々人間もまず人間らしく生き、動物さえやらないような行動を避けるべきです。
私は、仏教はまさにこれを教えるべきだと考えています。私たちは堂々と、あなたたちはまだ猿だ、真の人間になりなさいと言うべきだと思います。私はこうした考えを遠慮せずに伝えるつもりです。
確かに日本のお寺の状況を考えると、私たちは一生に一度しか寺に来ないかもしれません。それも、誰かが亡くならなければ訪れることはないでしょう。そのような状況では、特定の話題を取り上げるのは適切ではありません。私たちが思いつく悪い点は、お互いに関連しています。
それに対して、我々は人間らしく、自身の人間性のレベルを上げるべきです。どのようにレベルを上げるかというと、まず自分の仕事をし、ご飯を食べ、家族を養い、平穏な生活を送ることです。これが普通の人間の生き方ですが、一方で、自分に少々余裕のあるお金があるならば、そのお金を無意味な遊びに使わずに、困っている他人のためや、自然や生命を守るために使うべきです。
自由にどこかへ行って遊ぶこと、飲み屋で高価なパブに行って飲むことも可能です。しかし、それよりも、困っている人々のためにそのお金を使う方がより人間性が高まると言えるでしょう。例えば、隣人が急に病気になり困っていたり、高齢者が一人暮らしで苦労している場合、自分勝手に生活せずに、そのような人々を助けることが重要です。
また、我々が誰かに批判や悪口を言われた時、怒るのは人間の自然な反応です。しかし、それを超えて、馬鹿にされても、批判されても、けなされても怒らないことが求められます。それは難しいことですが、批判に感謝し、自分の未熟さを認識し、それを改善することで、人間性を高めることができます。
さらに、男性であれば、美人を見たときに、頭の中でさまざまな考えが生まれるのは自然なことです。しかし、結婚して家族を持つ男性は、そのような欲望を抑えることが必要です。そのお金を家族の幸福のために使うべきです。余計な欲望は、危険で、良い結果をもたらさないからです。
私たちはまず人間になり、そこから人間性を可能な限り高いレベルに引き上げることを目指すべきです。このレベルアップの方法は、仏教、特に初期仏教の教えに基づいています。これには、心に怒りや憎しみ、妬みが微かにでも存在しないように心を磨くことが含まれます。そして、真理がありのままに見えるレベルまで心を磨くことです。この境地こそが、神々や人間を超え、出世間的な境地に達する仏道と言えるでしょう。
神々を拝むのではなく、我々は彼らを乗り越えるべきです。梵天のような高次元の生命や観音様、お不動様も存在しますが、私たちは彼らを拝むのではなく、乗り越えるべきです。弱い心で「観音様、助けてください」と言うのではなく、「私は観音様を乗り越える」という強い意志を持つことが必要です。神社に行って拝む必要はなく、観音様にお願いする必要もありません。私たちは自分自身の強い心を作るべきなのです。
我々がどう生きるか、それが重要です。人間として生まれたからには、その仕事を果たすべきです。仕事を果たさずに死ぬことは、非常に悲しいことです。我々が生きる目的は、鮭のように生きることではありません。鮭は川に生まれ、海に行き、食べ続け、成長します。その後、生まれた川に戻り、卵を産み、死ぬ。しかし、我々人間の生き方は、それとは異なるはずです。
我々人間は、特定のパターンで生まれ、学校に通い、就職し、結婚し、子供を作り、年を取り、最終的には死ぬ。しかし、それだけでは鮭と変わらない。我々は鮭ができないこと、つまり愛の心を作ること、怒りや欲を消すこと、心の汚れを断つこと、解脱を体験することなどを行うべきです。
私たちがどのように生きるか、それが大切です。死んだ後のことは分からないかもしれませんが、それを前提にして生き方を作ることが大切です。私が皆さんに話すことは、皆さんが期待していたものとは違うかもしれませんが、私は自分が言っていることが本当か嘘かを皆さんに理解してもらうために話をしています。私は本当に死後の働きや生命の次元論について話すことができますが、それを信じるかどうかは皆さん次第です。
まず、結論からお伝えします。
「人が死んだら何が起こるか?」という問いについて、第一部で明確に答えると、「分からない」です。どんな仏教の宗派の僧侶が何と言おうと、実際のところ、その僧侶も分からないのです。さまざまな宗派の最高指導者たちが、「人が死んだら何が起こるか」について偉そうに語るかもしれません。しかし、「人が死ぬとこうなる」というのは真実ではない。誰もが分からない、私たちと同じです。
それだけでは物事が収まらないので、「死後、何が起こるのか?」という問いについて具体的に言うと、人間が死んでも、我々は消滅しない。それは素晴らしいことだと思われるかもしれませんが、そう単純な話ではありません。
鮭の生態を考えてみてください。鮭は生まれた川に帰るため、3年間食事を摂りつつ、数百キロも遡上し、産卵した後に死んでしまいます。これが何度も繰り返されると思うと、本当に楽しいと思えますか?我々人間も鮭と同じで、何度も同じことを繰り返して死ぬ。そして再びトライし、同じことを繰り返す。それでも我々は「生き続けたい」と思います。しかし、それは無明(無知)であり、苦労の原因です。
死後、我々が消えない理由について、皆さんはもう知っていますよね。人間が死んでも消えない、その理由は皆さんが既に理解しています。では、ここで質問します。今、ここで死にたいと思っている人はいますか?たとえ人生がどんなに苦しくても、ほとんどの人が死にたくはないでしょう。
たとえば、美味しいご馳走が目の前にあり、それを頂く前に、「これから死にます」と言って、死ぬことができる人はいません。確かに、自殺を選ぶ人々もいますが、彼らが自殺するのは幸せな気持ちからではなく、生きていけないほどの苦痛からです。しかし、「ああ、死にたいな、楽しいな」と思って死ぬ人は一人もいない。
ですから、我々が死んでも消えない理由は、「死にたくない」という強烈な感情によるものです。この感情は強大なエネルギーを生み出します。たとえば、鮭やペンギンが無意味に見える行動をする背後には、このエネルギーが働いているのです。
人間も同じで、楽に生きられるにもかかわらず、あえて苦労を重ねています。なぜなら、それが生きていくために必要だからです。研究を行い、実験をする、発明をする、ビジネスをする、失敗をする、そして成功をする。これら全ての行動の背後には、「死にたくない」という強烈な感情が働いています。
この感情があるからこそ、我々は何かを成し遂げることができるのです。この感情が強力なエネルギーを生み出し、そのエネルギーが結果を生み出す。その結果が因果の法則により、我々を完全に消滅させることはないのです。
我々が21世紀の社会を作り、今の息苦しい世界を作ったのも、我々が必死に生き抜こうとした結果です。例えば、人を殺す人も、それが自分の幸せにつながると考えて行動する。だから、この強烈な「生きていきたい、死にたくない」という感情がある限り、我々は止まらない。
そして、死ぬ瞬間でも、「さよなら」と言って死ぬ人はいません。死ぬ時でも、できるだけ長く生きたいと思うのです。だから、死ぬ瞬間は失望で満ちています。「ああ、負けた」と思いながら、ゲームオーバーを迎えるのです。
それはまるでゲームセンターのゲームのようなものです。何分間もゲームを楽しんだ後、必ずゲームオーバーと表示されます。しかし、我々は再びゲームをしたいと思います。そして、子供たちは「もっとやりたい」と言い、親はさらに100円を与えます。これが、我々の人生の論理なのです。
死後の状態も、死ぬ瞬間にゲームオーバーという合図が出たら、その終わりを受け入れて覚悟することが良いのですが、やはり悔しいですね。その瞬間に「生きていきたい」という強いエネルギーが生まれます。そして、そのエネルギーは別の形で継続していくのです。あのお経で言われたように、死んだら魂が別の世界に移るということではなく、単にエネルギーの連続性です。ただひたすら連続していくだけなのです。ですから、仏教の輪廻転生の話も、楽しい話とは言えません。単なるエネルギーの繰り返しであり、一つのエネルギーが消えると、それに代わる適当なエネルギーが生まれてくるのです。その働きは非常に理解が難しいものです。私は少し理解できるように話すと複雑になるので、自分勝手に話せば簡単ですが、死ぬ瞬間について説明します。
私たちは現在、身体と心が人間だと思っています。人間と思われるのは、脳細胞や神経などの働きと、物体としての身体の働きです。この二つもここに置いておかなければなりません。たとえば、皆さんは多くの勉強をされているかもしれません。博士号を持っている方もいるかもしれません。しかし、教育や知識というものは身体に関連するものです。身体が壊れれば失われてしまうのです。ですから、私たちの知識や身体、脳も、死ぬ時はここで置いておかなければなりません。持ち運ぶことはできません。
それよりも、私たちが人間として持つ生きる衝動やエネルギーが、最後の瞬間で決まり手になるのです。どれだけ、どんな大学で勉強したかとかは関係ありません。大学に入ったかどうかも関係ありません。子供だろうと大人だろうと関係ありません。子供が亡くなった場合、それはとても良いことだと
思います。なぜなら、子供は執着心があまりないので、楽に死ぬことができるからです。死ぬ時に良い場所に生まれ変わる可能性も、大人よりも多いのです。
たとえば、問題の多い人がたくさんのビジネスをして忙しく暮らしていて社会的にも有名で財産や富が豊富で名誉もあるような人は、死ぬ時も休む時間さえありません。やらなければならないことがたくさんあり、病院に行く際でも電話を持って行くほどです。病院でも秘書など多くの人々と一緒にいることもあります。そんな人が死んだ場合、良い場所に行くと思っていますか?行けないのです。なぜなら、彼らは強い執着心を持っているからです。物事へのアプローチが良くありません。とにかく、死ぬ時は私たちの知識もほとんど役に立ちませんし、身体も役に立たないことがよく分かっています。
誰でも死ぬ時は身体が壊れるため、心は壊れません。死ぬ時でも心は活動しています。私たちは単に「死ぬ」という言葉を使っているのです。その時、心は自由に活動でき、私たちの生き方や好き嫌いによって現象が見えてきます。その現象に対する個人のアプローチによって、次にエネルギーが再び活動し始めるのです。
例えば、幼い頃から誰かが亡くなったら阿弥陀様が迎えに来るという話を聞いて信じていた場合、それは少しリラックスできるかもしれません。そして、最後の瞬間には自分の頭にある概念から生まれる現象が見えるでしょう。しかし、それによって極楽浄土に行くわけではありません。極楽浄土が存在するかどうかも分かりませんし、その見えるものに対してどのようなアプローチを取るかによって、来世が決まるのです。例えば、一生お寺に行かなかったり、阿弥陀様の絵だけを見たことがあるだけだったり、自分の家が特定の宗派の家だと思っていた場合、その人は恐怖や驚き、不安を感じるかもしれません。
このような経験から、次の世界は心の成長にとても影響することが分かります。しかし、真の再生の法則は非常に複雑です。なぜなら、私たちが頭に持つさまざまな概念によって、それらが現実に映し出されるからです。身体がある限り、阿弥陀様を見たいと思っても、皆さんには見えません。身体が妨げとなっているのです。しかし、身体から離れれば、阿弥陀様でも悪魔でも神様でも何でも見えるのです。それは心がそれ自体を作り出すからです。自分で自分を認識するという非常に理解しにくい法則が存在するのです。
私たちの心に対して自分がどんな態度を取るか、そしてそのエネルギーによって来世が決まるのです。だから、私が言いたいのは安心してください。例えば、死ぬ時に阿弥陀様を見ても、「よかった、これから極楽浄土だ」と思うのではなく、心の成長がとても重要だということです。私はチベットの「死者の書」という本を見て、その法則にはたくさんの間違いがあることに気づきました。彼らの表現方法は正しいのですが、その他の概念や信じ方によって幻覚が現れる場合があります。目指すのは良い場所に生まれ変わることではなく、心の成長なのです。
私は日本で様々なことを見てきました。例えばある日、自分の国から帰ってきた時に電車を降りると、お母さんが赤ちゃんを抱っこしていました。その女の子はまだ歩けるほどの小さな1歳くらいの赤ちゃんでした。彼女は私を見た瞬間、とても親近感を抱きました。普通なら見知らぬ人を見たら驚いたり怖がったりするものですが、彼女は親近感を持っていたのです。子供はお母さんを見ているし抱っこされていますから、母は前を見ています。私はそれを理解して、この子と何かコミュニケーションを取らなければならないと感じました。言葉ではなく、心と心で通じ合おうと試みました。子供はさらに元気になり、反射的に母から離れて私の方に行こうとしました。
しかし、母は私と話していることさえ知らないのかもしれません。口で話しているわけではないからです。私たちが同じ対象を見ても、子供はまだ死んで間もないため、過去の記憶があるかもしれませんが、お母さんは長い人生を生きているため、宗教的な話に触れたことがないかもしれません。そこで彼らが同じものを見ても、二人の態度は異なります。子供は驚いたり怖がったりするかもしれませんが、お母さんは私を見て怖くなったため、すぐに子供を引っ張って他の場所に行ってしまったのです。ここで、同じ対象を見ても二つの態度が現れたのです。
子供はまだ死後間もないため、聖なる世界に対して怖がったり驚いたりすることはありません。しかし、お母さんはもう長い人生経験があるため、宗教的な話を知らない可能性があります。もし間違ってでも阿弥陀様が現れたら、お母さんは怖がるでしょう。私自身も阿弥陀様に会ったことはないので、阿弥陀様がどんなことをするかは分かりません。ですが、もし阿弥陀様があの人に顔を見せようと思った場合、お母さんはとても怖がるでしょう。
怖くなったら対応する波動の次元に落ちるため、来世はキリスト教や仏教の選択によって決まるものではありません。浄土真宗や禅宗に属しているかどうかでも決まるものではありません。上座部仏教は阿弥陀様を信じていないので地獄になるということではありません。これらは普遍的な法則に基づいて行動するものです。最終的に重要なのは、自分がどんな態度を持ち、どんなアプローチをするかです。
お釈迦様は心を乱さずに落ち着いていることを求め、私を信じなかったら地獄に落ちるというような完全に間違った嘘を言っていません。もし宗教で「自分の宗教を信じなかったら地獄に落ちる」と言っているならば、その宗教は完全に間違っています。生命が死後も続く可能性があるならば、それは普遍的な宇宙の法則である必要があります。イエス・キリスト様が信じなかったら地獄に落ちると言ったら、それは誤った考え方です。
ですから、私たちが信じるものが死後の決め手にはならないのです。上座部仏教を信じている人々も、亡くなったら良い所に生まれ変わるという保証はありません。私たちの国では、よく「あんたは仏教の家族に生まれたんだから天国に行くと思っているのか?」と冗談めかして言いますが、それは真剣な話です。悪いことばかりしている人が亡くなった場合、地獄行きです。ただ形だけで三帰依したり戒律を守ったりしても意味がありません。葬式の時でも、大抵はそんな話が出てきます。私は葬式の中で、「亡くなった時はお坊さんに説教できるほどのことやっておきなさい」と言います。
ただ下らないことばかりして何もしないで死んだ人には何も言うことはありません。人の悪口を言うわけにもいきませんし、人が亡くなったら私は「あんたたちもこうなりますよ」と堂々と言っているのですが、なぜ泣くのでしょうか?誰でもこのような経験をするものです。泣く人は非常にばかばかしいです。泣く場合は、あの人が可哀想に死んでしまったと思うかもしれませんが、私たちは自分も同じように死ぬのです。そういうことをはっきり言わなければ、人は幸福になれません。
以上のように、生命にはさまざまな次元が存在します。
皆様、地獄とはどんな世界かご存知ですか?地獄の描写は、仏画などでも見られます。もしかすると皆さんも行ったことがあるかもしれません。仏画を見て、「行ったことがない」と分かったかもしれませんが、私は皆さんも結構行ったことがあると思います。過去の生まれ変わりを思い出せるなら、瞑想などで自分の過去を思い出すことができます。そこで地獄という次元が存在します。それは非常に低次元で不思議な次元です。しかし、我々は現在の脳や目では他の次元を体験することはできません。
人間を見て、地獄を理解する必要があります。したがって、日本の仏画でも地獄として描かれているのは、人間の世界そのものです。人々が喧嘩をしたり、困難な生活を送っている様子が描かれています。鉄砲を持ったり、人を傷つけるものを持ったり、喧嘩ばかりしている様子や、マフィアのような暴力団の存在など、いつ自分が殺されるか分からない状況です。
さらに自分も堂々と相手を殺さなくてはならないし、お金を奪ったり脅したりするし、他人の家に火をつけるし、親分にも殴られる。それなのに、その親分に徹底的に忠誠を誓いながら生きている姿があります。このような生活と、我々の生活を比べてみてください。我々は喧嘩を嫌いますし、相手が不快なことをしても失礼なことを言うのは嫌です。
後で問題が起こる可能性があるからです。このような関わりは避けたいと思い、平和でありたいのです。兄弟でも喧嘩があれば、すぐになくなってほしいと思いますし、夫婦が喧嘩すると子供はそれを嫌います。夫婦は仲良くしてほしいと思います。人間の次元と、悪いことを行っている人々の次元を比べてみてください。彼らはそのような生き方しかできません。平和で仲良く、他の人
に優しく接する生き方はできないのです。つまらなく、刺激がないのです。したがって、死の刺激や恐怖の刺激、怒りや痛みの刺激で生きているのです。プロレスラーなども、身体はボロボロで怪我だらけで早死にしますが、それでもやっているのです。あれは何が面白いのでしょうか?普通のトラック運転手でももっと平和的に生きていられるのに、お金がたくさん入っても何の意味もありません。ラクをする時間がなく、毎日訓練しなければならず、毎日闘わなければならないボクサーなど、考えてみてください。彼らは痛みの刺激で生きているのです。
たまに人は死ぬ瞬間に心がそうした次元に落ちることがあります。生まれ変わったら、そこで恐怖や痛みなどの苦しみを味わうための食べ物を食べて生きているのです。ですから、我々が事故を起こして死にかけたり、病気になって大きな苦しみを味わったことがあるなら、誰かがそれを毎日毎日、瞬間瞬間味わわなければならない状態だと考えてください。そのため、死ぬことはありません。死の恐怖を食べているため、死ぬわけがないのです。
食べ物がないので、地獄の住人はそこで苦しみを食べて生きています。したがって、死の恐怖が得られるほど、地獄の住人の生命は延びるのです。もし瞬間でも「死の恐怖が消えた」と思ったら、その人は死んでしまいます。食べ物がないのですから、死ぬことはありません。では、ご飯を食べているのに、誰が死ぬのでしょうか?死ぬことはないのです。地獄の住人は、死の恐怖を食べて生きているのです。
天界についても説明します。天界では、その逆に喜びを食べて生きている人々です。地獄よりも天界の方が良いと多くの人が思っていますが、実際にはほんのわずかな次元の違いです。餓鬼道の話も、日本では人気があります。
日本の仏教では、人間と餓鬼道の話が主なように感じますが、私の意見ですが、そんな話ばかりすると皆さんが亡くなったら餓鬼道に行ってしまうかもしれません。何かどこかで幽霊が現れるとか、あれは餓鬼道なのです。それは物欲に快感を覚えている状態です。常に何か欲しい、これがあればいい、あれが欲しいと悩んでいる状態があります。その時、私たちは心から「満たされていない」という強いエネルギーを出しています。そのエネルギーを食べ物として摂取している次元が存在します。
例えば、「食べたい、食べたい」という欲求や、「お金があればいい」とか「もっと美しくなりたい」とか、「健康になればいい」と思うことがありますよね。それは餓鬼道のエネルギーの次元なのです。もし死ぬ時にもそういう欲望を持っていたら、「阿弥陀様を見たけれど、もっとお寺に行ってお参りした方が良かった」とか思ってしまったら、その次元に行ってしまうのです。そこでは生命がずっと「ない、ない、ない」という苦しみを抱えているのですが、その苦しみをどれほど感じているかはわかりません。それを食べ物としているのです。
ですから、餓鬼道の餓鬼たちがお腹が満腹になった瞬間でも死んでしまうのです。お腹が満腹だと思った瞬間に死んでしまうのです。死にたくないと思う人間も同じですよね?人間の世界ではお腹が満腹になった時に喜びますが、「お腹が空いた、良かった」と思う人はいないでしょう。それは人間の次元なのです。人間はいろんな次元のことを味わっていますが、天界はそのような快楽を食べ物としています。
天界に生まれ変わったら、そこで遊んだり、音楽を演奏したり、踊ったり、歌ったり、できるだけ性的な行為を思う存分楽しんだり、食べ物に溢れているイメージを作っているかもしれませんが、本当は天界に行ったらそんなことをしなかったら死んでしまうのです。彼らは楽しんでいるわけではなく、必死に生きているのです。遊ばなければ死んでしまうのです。音楽の波動で生きている神々は、その波動を時間に合わせて摂取しなければ死んでしまうのです。ですから、私たちは楽しくなるために演奏を聴くのですが、向こうの場合はそれが生死の問題となります。
死ぬか、生きるか、天界に行ってみてください。そこではさらに高い次元のことがいろいろあります。人間と神々が関わる理由は、私たちを食べ物にしている神々が存在するからです。つまり、生命は人間だけではなく、それぞれの次元の生命が楽しみながら食べて、子供を作り、平和で良かったと思って生きているのです。その満足感という心のエネルギーの波動を食べ物としている生命体が私たちに少し満足感を与えるようなことをするのですが、とてもわがままですよ。ただ満足感で生きている人からエネルギーを受け取るだけで、他の人は助けてくれません。そこは決まっているのです。
例えば、満足感のエネルギーを食べている次元があり、その次元が特定のものを食べたがっていたら、人類全体が満足させれば良いでしょう。しかし、それはできません。食べ物があると食べなければ死んでしまうということは私たちと同じなのです。ですから、神々を頼ったとしてもあまり役に立たないのです。幸福な人々はいつも幸福ではありませんか?と怒って言う場合もあるでしょう。それはそのような生命を食べ物にしているからなのです。何をやっても成功する人々の周りには、そのエネルギーを食べている生命が付いているのです。ですから、恨んでも仕方がありません。
皆さん、怠けて掃除もろくにしないで子供と喧嘩したり、旦那さんが来るとすぐに喧嘩を売ったりする環境を作ってしまうと、その環境がどんどん拡大して大きくなってしまいます。私たちが出すエネルギーを食べ物にしている生命がいるからです。ですから、常に明るくいてくださいと言われるのです。冗談でも怒らないで怒ってしまったら、どんな霊がつくか分からないという怒りの霊がついてしまったら、ずっと怒らなくてはいけないのです。
それは低次元の存在ですが、あると言えばそうですね。私は上座部仏教ではそういう話はしませんが、私はそれを知っているのですが、みんなは追い払ってしまいます。自分の力で生きようと頑張ってしまうのです。自分をともしびにして、自分を島にして頼るなと、他人に頼るなとはとても危険です。そこで、もっと高い次元のことを考えると、例えば瞑想でもして心の浄化をし、欲望がなくなった喜びを味わう人がいます。
皆さんも瞑想の経験があるかもしれませんが、たまにでもヴィパッサナー瞑想をして気持ち良いと感じたことがあると思います。それは、何もせずに好きな音楽も聴かず、好きな食べ物も食べず、好きな遊びもしないでただ座って自分の呼吸に集中すると、質の違うリラックスや楽しみを感じる場合があります。それは貪りから離れた幸福な状態と言えるのです。
音楽を聴いて楽しむ感覚と、何も音を聞かずに静かになる楽しみは異なるものです。完全な静けさを楽しむと、その質が異なるのです。そういう欲望から離れた楽しみを味わうこともあるのです。それは非常に高い次元であり、そこに生まれると寿命が非常に長くなります。なぜ長いのかというと、その次元の生命の食べ物は「何もしないこと」なのです。
音楽を聴いたり異性と遊んだりすることではなく、そうしたものから離れましょうと清らかな心で過ごしましょう。生まれるときに清らかな心で生まれるため、そのまま放っておけば心は清らかです。そして、それがそのまま食となり栄養となるのです。ですから、この宇宙は一度壊されるまで、二度壊されるまでという寿命が存在しています。彼らの寿命は億単位で、数え切れないほど長いのです。
彼らの寿命の長さがそれほど長い時間続く理由は、死ぬ最後まで気づかない人間の頭の悪さです。気づいても、私が前に質問したように、来世の原因が分かっているはずです。例えば、死にたくないという衝動は分かっているのです。それは来世への衝動なのです。死ぬとき、約1か月から3か月ほどかかります。死が近づいてくると、一般的には1年ほどで気づくものです。人間の頭は鈍いため、はっきりと気づかないのです。
気づいたとしても、その人は死を見て体験しているので、もうすぐ死ぬという混乱に陥ります。私だったら、テーラワーダ仏教の信者であれば、簡単に言います。「あなたは何を思っていますか?」「まだどれくらい生きるつもりですか?」と周りの人々に慈しみの心を持つべきだと。すると、心は落ち着きます。ある人が突然病気になり、高齢で倒れた場合、本人は死ぬと思っているでしょう。その人は混乱
し、病院に行く前に色々と話し始めます。「鍵はどうするつもりですか?」とか。もう車に乗りましょうと言ったりします。そうすると落ち着きます。
いきなり、「瞬間に鍵を持って行くつもりですか?」と聞いたり、病気が治ったりしても、最終的には治ります。たとえ衰弱していても、癌になったとしても、最終的には治るのです。癌が見つかったら、非常にありがたいものです。なぜなら、人はいつ死ぬかが既に決まっているからです。ですから、癌のことを告知するべきです。日本のような社会では人の死を言わないということは、我々がどれだけ人間のレベル以下に生きているかを示しています。
生まれて一日で死ぬ生命も存在し、生まれて何兆年経っても宇宙が一つ出来上がって消え、また出来上がるような寿命が長い生命も存在します。微生物を見ても、生まれてその場で死んでしまいます。それでもその生命はきちんと寿命を全うしています。生まれて大人になり、仕事をし、子孫を残し、死ぬのです。だから微生物からすれば、きちんと長生きしたと言えるのです。
時間の複雑さと重要性について、理解していただきたいと思います。
今は質問する時間ではないかもしれませんが、頭が混乱していて、来世の真実は人間には理解しにくいものです。しかし、本当のことはそういうものです。皆さんは信じるしかなく、他の疑問を持つことはできないでしょう。
例えば、「なぜ地獄には苦しみがあるのか?」などの質問です。その苦しみは、その人自身が自ら苦しんでいるからであり、それが彼らの食になっているからです。理解できない場合は、「なぜ人は戦争に行くのか?」や「なぜ兵隊さんは堂々とするのか?」なども同様です。彼らが行くのは、自分自身が生きがいを見出しているからです。この異次元の世界では、それが食そのものです。人間も食事だけをしているわけではありません。
人間の食事は主にご飯であると思われていますが、それは間違いです。例えば、人を箱に閉じ込めて、栄養を供給し、音を聞こえないようにし、目を閉じ、香りを感じないようにし、麻酔をかけ、何も感じないようにし、栄養と酸素を管から与える場合、その人は生き続けられると思いますか?せいぜい1か月ほどでしょう。その後は死に至るのです。
身体に刺激がないため、神経はどうなるかというと、神経細胞は死んでしまい、耳が聞こえなくなり、身体を動かさないと筋肉は衰えて消えてしまいます。その結果、心臓発作を起こし、死ぬのです。ですから、生きるためにはただご飯だけを食べているわけではありません。様々な刺激も私たちは摂取しているのです。
例えば、マッサージを受けたりすると健康を保ち、元気になるのです。それも食となるのです。ですから、私は皆さんがプロレスリングを楽しんだり、拍手しながらボクシングを見たりすることで、心地よさを感じるのではないかと思います。タイやインドネシアなどの国では、ニワトリを戦わせたり、中国では小さな魚同士を戦わせてお金をかけることもあります。
それにもかかわらず、その人たちは死ぬこと、生命の恐怖や怒り、苦しみも食としているのです。ですから、雑食であっても選びましょう。自分の食べ物を選びましょう。音楽を聴くのであれば、それなりの品質の音楽を聴いて、頭も良くし、心も安らかになりましょう。
下らない音楽は聴かず、お互いに意味のある話をしましょう。大切なことを、美しい言葉で伝えましょう。相手の心を傷つける言葉は使わず、人間らしく接しましょう。そうすることで、良い食事をとる人間になり、来世も良い場所に行くことができます。
以上で本日の話は終了です。どうもありがとうございました。
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