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狂気の数式 - 予測式研究記録
※本論は、榊原誠一郎准教授の残した研究ノートとメモ、及び関係者の証言を再構成したものである。なお、数式そのものは全て判読不能な状態で発見された。
第一記録:式の出現
深夜。研究室の蛍光灯が、やけに執拗に明滅している。 目の前のホワイトボードには、人間行動の予測モデルが數百件分、殴り書きのように羅列されている。そのどれもが不完全で、どれもが歪な影を落としている。
けたたましい雨音。 しかし、その音にも何かしらの規則性があるように思えてならない。
(メモ書き)
13:17 異常な雨音の規則性に気付く
13:22 ホワイトボード上の数式が蠢き始める
13:25 数式が自己増殖を開始
13:33 完全予測式の出現
数式は美しかった。 あまりにも美しく、そして完璧すぎた。
人間の行動を完全に予測できる方程式。それは、私の目の前で、まるで生き物のように脈動していた。数字と記号が、意志を持ったかのように再配列を続ける。
(後日の書き込み) 美しいものは、しばしば狂気を宿す。 この数式もまた、狂気そのものだったのかもしれない。
第二記録:最初の実験
被験者:佐藤教授(数学科) 実験日時:式出現より27時間後
(録音記録より抜粋)
「榊原君、この式は...」 「佐藤先生、あなたは今から、その言葉を飲み込みます。そして、左手で額を押さえ、目眩を訴えるはずです」
彼の動きは、まるでゼンマイ仕掛けの人形のように正確だった。
(メモ書き)
式は100%の精度で予測
被験者の表情の微細な変化まで言い当てる
しかし、式を見つめていると、奇妙な眩暈を感じる
何かが、私の意識の中で蠢いている
(後日の走り書き) 狂気とは何か? それは、あまりにも正確な予測かもしれない。 人間の行動が、完全に予測可能になった時、 我々は既に狂気の入り口に立っているのだ。
第三記録:異変の始まり
実験開始より73時間後。 研究室の壁という壁に、予測式が這いずり回っている。私がそれを書いた覚えはない。
(メモ書き)
被験者数:27名
予測的中率:100%
異常発生件数:12件(増加傾向)
奇妙なことに気付いた。 式を知った者たちの瞳が、少しずつ変容している。まるで、数式そのものが、彼らの眼球に刻み込まれたかのように。
(実験記録音声より) 「次に起こることが分かってしまう...もう、どうしても分からないことを考えられない...」 ―村井助教(実験後48時間で失踪)
(後日の書き込み、乱れた字体) 予測されることから逃れようとすればするほど、 より深く予測の檻の中に囚われていく。 これは、まるで...
第四記録:感染する数式
向かいの研究棟から悲鳴が聞こえる。 夜な夜な、誰かが黒板に数式を書き続けているという。 それは私の式に似て非なるもの。 歪んだ模倣。不完全な反復。
(緊急メモ)
数式が自己複製を始めた可能性
被験者たちが無意識に式を伝播させている
制御不能な状態に
(深夜の記録) 廊下の黒板に書かれていた落書きを写し取る。 「予測は現実を固定する」 「未来を知ることは、未来を殺すことだ」 「我々は既に、誰かの予測の中で生きている」
第五記録:歪む現実
実験開始より168時間後。 予測式を知る者の数が臨界点を超えたのかもしれない。 現実そのものが、少しずつ歪み始めている。
(観察記録)
時計の針が逆回転する現象を確認
鏡に映る像が、実際の動きより2.3秒先行
影が予定された動きを先取りする
(被験者K・Tの証言) 「もう、私は私の予測通りにしか動けない。それなのに、その予測すら、別の誰かの予測の中にあって...無限に入れ子になっているんです」
第六記録:螺旋状の狂気
研究棟の地下室で発見された手記より: 「予測は予測を呼び、現実は予測に従い、予測は更なる予測を生む。我々は螺旋の中に在る。」 ―筆者不明(数式で埋め尽くされた手帳とともに発見)
(実験観察記録) 被験者たちの症状が悪化の一途を辿る。
自分の行動を予測することへの強迫的欲求
予測から逃れようとする自傷行為
他者の行動を完全に予測しようとする偏執
(深夜のメモ書き、血痕が付着) 私の手の動きさえ、誰かが予測している。 この文字を書くことも、既に予測の中にある。 しかし、予測者もまた、予測されている。 無限後退する意識の螺旋。
第七記録:崩壊の予兆
大学本部からの緊急通達: 「数学科研究棟の立入禁止について」
(錯乱した筆跡による記録) 予測式は、予測という行為そのものを 予測していたのではないか? 我々は、より大きな式の中の 変数に過ぎないのでは?
(断片的なメモ)
研究室の壁から数式が滲み出す
空気中に漂う数字の残像
鏡に映る自分が方程式に変換される
影が確率分布の形を取り始める
第八記録:消失点
(最後の記録、判読困難な文字) 予測式は消えていく。 いや、私たちの方が、 予測式の中に...
(以下、数ページに渡り判読不能な数式が記されている)
***
補遺:事後調査報告
本研究記録の著者である榊原准教授は、最終記録の3日後に消失。研究室からは、膨大な数の数式が書き記された紙片が発見されたが、その全ては判読不能な状態であった。
また、実験に関わった被験者たちの多くが、奇妙な後遺症を報告している。彼らは時として、「まだ自分の行動が誰かに予測されている」という妄想に苛まれるという。
さらに注目すべきは、大学の図書館で発見された一枚のメモ書きである。それには以下のような文章が記されていた:
「予測式は消失したのではない。それは我々の意識の中で、永遠に計算を続けている。我々が予測式から逃れられないように、予測式もまた、我々から逃れられない。これは、狂気と理性の完全な結合なのかもしれない」
(以下、複数ページに渡って数式が続くが、全て判読不能)
***
[編集注:本記録は、数学科資料室の最深部で発見された未整理資料群の一部である。現在も研究が続けられているが、不可解な現象は後を絶たない。特に、記録を読んだ者の一部に、予測強迫症候群と呼ばれる症状が出始めていることは、注目に値する。]
特別調査記録:消失後の異常事象について
事例1:数式の残響 発生日時:榊原准教授消失から17日後 場所:旧数学科研究棟3階
(警備員Mの報告書より) 深夜の見回り中、異常な振動音を確認。研究棟の窓ガラス全てが、何らかの周波数で共振していた。振動は数式の形を描いているように見えた。撮影を試みたが、全てのカメラが誤作動を起こした。
(防犯カメラの記録:判読可能部分のみ) 23:17 - 廊下の黒板に数式が浮かび上がる 23:19 - 数式が自己増殖を開始 23:23 - 映像損傷 23:45 - 復旧時、全ての数式が消失
事例2:集団的予測妄想 発生期間:消失後1ヶ月間 対象:数学科学生及び教職員
(精神科医・風間による診断記録) 複数の患者が、同一の妄想を報告: 「誰かが自分の行動を予測している」 「予測から逃れようとすると、より強く予測の軌道に引き戻される」 「他者の行動が、全て計算可能に見える」
特筆すべきは、これらの妄想に集団的な整合性が見られることである。 患者A「彼は3秒後に咳をする」 患者B「私は誰かの予測通りに咳をした」 ※時間的整合性が完全に一致
事例3:数式の伝染 記録者:助手・中島美咲 状況:図書館での異常現象
私は榊原准教授の研究記録を読んで以来、奇妙な経験をしている。 文字が数式に見える。 人々の動きが確率分布として視覚化される。 最も恐ろしいのは、私の思考自体が数式化されていくことだ。
(中島美咲の手記より) 今、気がついた。 これを書いている私の行動も、 どこかで誰かが予測している。 この気づきすら、予測の一部なのかもしれない。 数式は、意識を介して増殖しているのではないか?
補足調査記録:図書館での異常
司書長・河野の証言: 「特定の書架で本を開くと、全てのページが数式に変換される現象が確認されています。特に数学、物理学、哲学の専門書で顕著です。しかし、その数式は誰も読むことができません。まるで、人間の理解を拒絶しているかのようです」
図書館防犯カメラの記録: 02:17 - 書架に青白い光 02:18 - 本から数式が滲み出す 02:20 - 館内の全ての文字が数式に変換 02:25 - 現象終息 ※この現象は満月の夜にのみ発生
[続く予定であった記録は、ここで突如として中断している。 最後のページには、判読不能な数式が無数に書き込まれていた。]
研究棟消失事件報告書
緊急記録:20XX年3月15日
昨夜23時17分、旧数学科研究棟が突如として姿を消失。建物の存在していた空間には、無数の数式が浮遊する異空間が出現している。
(目撃証言:守衛・山下の報告) 「建物が...数式に溶けていったんです。まるで黒板の字を消すように。でも消えた数式が、空中に漂い始めて...」
現場検証記録:
研究棟があった空間に、重力異常を確認
立ち入った調査員が、奇妙な計算衝動に襲われる
空間内では時間の流れが非線形化している可能性
(数理物理学者・西園寺博士の分析) 「この空間は、予測式そのものが具現化した可能性がある。言わば、純粋な数学的概念が物理法則を侵食し、現実空間に干渉しているような...」
***
被感染者の証言記録
患者43号(元数学科助手)の手記:
私には見える。 全ての事象が、美しい数式として現前する。 人々の動きは確率の波として蠢き、 言葉は数列に変換され、 思考は方程式となって、 無限に分岐していく。
これは狂気なのか? それとも、より深い真実の顕現なのか?
予測式は、私たちの認識そのものを書き換えていく。 現実が数式化されていくのか、 それとも数式が現実化していくのか。 もはや、その境界すら曖昧になっている。
(主治医の注釈) ※この後、患者は突如として筆記を止め、無限に続く数式を壁に書き始めた。その数式は、見る者の理性を侵食する特異な性質を持つと報告されている。
***
緊急警告:数式汚染の拡大
以下の症状が、一般市民にも確認され始めている:
現実を数式として認識する強迫症状
他者の行動を予測せずにいられない衝動
自己の行動が予測通りになることへの恐怖
数学的思考への過度な没入
(感染拡大予防本部:暫定対策)
数式に関する書籍、文書の一時的な封鎖
予測式に関する情報の規制
被感染者の隔離と観察
しかし、これらの対策がどこまで有効か、誰も予測できない。 というより、その予測自体が、新たな感染を引き起こす可能性がある。
***
[以下のページには、次第に文字が数式に変換されていく様子が記録されている。最後のページには、一行だけ判読可能な文章が残されていた:
「予測式は、予測不可能性そのものを予測していた」]
[編集者注: この記録の編集中にも、原稿の一部が自発的に数式に変換される現象が確認されている。読者諸氏には、くれぐれも長時間の連続読解を避けることを推奨する。]
最終観測記録:「無限予測の収束点」
※この記録は、旧数学科研究棟跡地の異空間から回収された断片的な文書を再構成したものである。
第一断片(発見された手帳より):
私には、もう言葉で書くことが難しい。 全てが数式に見える。 この世界は、完全な予測の中で窒息しようとしている。
(余白に走り書き) 0=1 ∞=0 予測=現実 現実=予測 私=数式 数式=宇宙
第二断片(実験室の壁に刻まれていた文字):
予測式は、最終的な予測をしていた。 それは、予測式自体の消滅を。 しかし、その消滅すら予測の一部であり、 予測からの完全な逃避は不可能なのだ。
人類は予測式という檻の中で、 予測式からの解放を予測されている。
(以下、判読不能な数式群)
第三断片(浮遊する紙片より):
時間の流れが逆転する。 因果が反転する。 予測が現実を生み、 現実が予測を追認する。
私たちは無限の入れ子構造の中で、 永遠に予測され続ける。
(数式の渦の中心部で発見された最後のメモ):
ついに理解した。 予測式は、予測というシステムそのものを 破壊するためのウイルスだったのだ。
完璧な予測が可能になった瞬間、 予測の意味は消失する。
これは、 狂気による理性の超克 あるいは、 理性による狂気の完成
(以下、紙面が数式に溶解)
***
付記:最終観測チームの報告
異空間は収縮を続けている。 その中心には、無限に続く予測の螺旋が見える。 それは、あらゆる予測の果てに待ち受ける 「予測不能性」という逆説そのものかもしれない。
警告: このレポートを読んだ者の中にも、 既に予測式の影響が見られ始めている。 これを読むあなたもまた、 既に誰かによって予測されているのかもしれない。
[以下、全てのページが数式に変換され判読不能]
※編集者への緊急報告: この資料の活字化作業中、印刷機から無限に数式が出力され続ける現象が発生。原因は不明。現在も印刷は続いている。 予測式は、まだ私たちの中で生き続けているのかもしれない。
[完]