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「パリに暮らして」 第12話

 部屋に辿たどり着くと、酔いつぶれた柊二さんをベッドに横たわらせた。柊二さんは目を閉じたまま、熱い息をふーっと吐いて、そのまま動かなくなった。こういう状態の時に無理に動かされるのがどんなに辛いかをよく知っている私は、柊二さんをその姿勢のまま寝かせておいて、壁際にあるソファの方に行って、部屋に備え付けのミネラルウォーターの蓋を開けて飲んだ。黄色い色調の壁を、傘付きの間接照明が夕焼けのような色に染めていた。暖房が効いていたが、念の為にソファの上にかかっていた毛織りの暖かいショールを柊二さんの体の上にかけた。寝息も立てず、柊二さんの体はぴくりとも動かなかった。ただ、時折苦しそうに大きく息を吸うと、ちょうど吸ったのと同じくらいの長さの息を吐くのだった。
 私達が飲んだボルドーの赤ワインと貴腐ワインの混ざった、甘くて重い薫りが部屋じゅうに立ちめていた。私は何となくその薫りに倦怠感を覚えて、そっと音を立てないようにベッドの足元を通り過ぎると、飲みかけのミネラルウォーターのボトルを柊二さんの手元に置いて、フランス窓を開けてバルコニーに出た。

 屋外の夜気は、十一月初旬のヨーロッパの気候にたがわず、刺すように冷たかった。コートを着て出なかったことを後悔したが、ワインで火照ほてった体には、この冷たさはまだ心地よかった。その熱で肌が守られているような気さえされて、私は大胆な気分になった。

 眼下には、葡萄畑の傾斜地が段々低くなりながら遠くまで続き、その向こうには夜に沈んだ黒い海がぼんやりと広がっていた。収穫を終えて裸木同然となった無数の葡萄の低木が月明かりの下で影のようにひっそりとたたずんでいる様は、どうかすると巨大な共同墓地のように見えた。けれど、そんな風に何もかもが死んだように動かない中で、月の光を浴びながら、この木々は来たるべき冬を迎え、え忍んで、春になる頃には又新芽を出しやがて再び花を咲かせる為の滋養をたくわえているのだ。なぜかそんなことを考えて、私は不思議な気持ちになった。そしてそんな気持ちのまま、顔を上げて月を見上げた。ほとんど満月に近い大きな月は、ちょうど今私の真上に来ていた。見ていると、月はどんどん明るく輝きを増していくように感じられた。

 目を閉じると、柊二さんが披露したあの詩が思い出された。葡萄の美酒夜光の杯……飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す……。
 今夜琵琶を弾いたのは柊二さんだった。飲め飲め、騒げ騒げと。盛んにあおり立てて宴会を盛り上げたのだ。そして、沙場に臥す兵士は、私……。実際は琵琶弾きがベッドの上に臥して、兵士はバルコニーに立っているのだけれど。でも、兵士と琵琶弾きとに、何の違いがあるだろう? 最後に強く叫んでいるのは、古来征戦幾人か回る、だ。どちらも同じように、戦に出て行くのだ。そして、生きて戻れる者など、まず、いはしないのだ。あるいは、戦に立って行った時の自分のままで戻ることのできる者など……。
 
 
 背後でカタ、とフランス窓の開く音がして、私は目を開けた。振り向くと、私がさっきかけてあげたショールにくるまった柊二さんがベランダに出て来るところだった。
「水をありがとう」
 と柊二さんは言った。そして、ひどく寒いな、というようなことを口の中でモゴモゴとつぶやいて私の横に立つと、何も言わずにそのショールをふわりとなびかせ、中に私をかい込むようにして抱き寄せた。
「寒いだろう。ほら、こうすれば暖かい」
 私はなぜかあらがう気にもならず、じっとなすがままになっていた。その頃にはもう体が冷え切って、戸外の寒さが辛くなってきていたというのもあったけれど、久しぶりに感じた柊二さんの体温は、わずかに私をなごませた。二人とも、吐息がワインの匂いに染まっていた。
「もう、大丈夫なの?」
 私が聞くと、柊二さんはふふっと自嘲的に笑って、
「頭がガンガンする」
 と言った。
「今夜は本当に飲み過ぎたよね」
 私は言った。
「本当に」
 柊二さんは私の肩をポンポンと叩きながらこう言った。
「夕食後にここでワインを飲もうって言ってたのにな。ごめん、今夜はどうも無理そうだ」
「確かに無理だわね」
 私は笑いながら言った。
 柊二さんは、私の頭に唇をつけて、大きく息を吸うと、ゆっくりと息を吐きながら、葡萄畑の方を見やった。そして、前の方から手を回して、私の髪を触った。たわめた髪をてのひらで握るようにして、その弾力を確かめているようだった。
「……真っ直ぐな、しっかりものの、黒い髪」
 独り言のように、ぽつりとそう言うと、私の髪の中に顔を埋めた。
 
 
 ――日本に帰りたい――

 
 ……そう言ったように聞こえたのは、私の勘違いだろうか。ほんのかすかな、消え入りそうな声で、柊二さんは何かをつぶやいたのだった。彼の声帯を震わせて出て来たその不確かな振動は、私の髪の毛一本一本に乗り移り、やがて静かに浸透していった。彼はそれを私の中に封じ込めるように、抱く腕に力を入れた。そして顔を上げ、もう一度葡萄畑の方を見やった。
 彼方の海の方まで、彼は見やったのだろうか。抱きすくめられていて身動きできなかった私は、彼の視線が遠くを見るように動いたのかどうか、知ることはできなかった。けれどその時私には、彼が遠くの海の、そのもっと遠くに思いを馳せているのがわかった。

 ――しばらくの間、私達は無言で月明かりに浮かぶ葡萄畑を眺めていた。お互いの体温で暖を取って、今はもう戸外の寒さは気にならなかった。私は柊二さんの背中に手を回し、優しくさすりながら、フラノのセーターの胸に顔を埋めた。いつものあの独特な、男臭さと上質な香水の入り交じった、得も言われぬ匂いがした。
 

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