記事一覧
ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜63 『清潔で、心地よく明るいところ』
東急花丸線の住良駅で降り、改札を抜け左側の長いエスカレーターを下ると、長い商店街が西に向かって伸びている。商店街を進み、三つめの角を左に曲がって少し行った所に一見すると何の店なのか分からないような佇まいでその喫茶店はある。
「清潔で、心地よく明るいところ」とだけ書かれた三角看板が店先に置かれているだけなのだが、実はそれが店名だ。文学好きの方であればピンとくるかもしれないが、これはアーネスト・ヘ
ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜62 『ゆめちゃんとふしぎなおともだち その③』
その①
その②
楽しかった夏もあっという間に過ぎ去り、八月の終わりにさしかかりました。
そしてついに作戦決行の日がやってきたのです。
町がすっかり眠りついた深夜、ふたりは窓からそっと抜け出し、あずさちゃんの家へ向かいました。とても大きなお屋敷です。
「どこがその子の部屋?」とゆうちゃんは聞きました。
「二階の一番左」とゆめちゃんが答えます。
「じゃあ、行ってくるよ」
ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜61 『ゆめちゃんとふしぎなおともだち その②』
その①
いよいよ夏休みがやってきました。終業式の日にゆめちゃんはあさがおの鉢植えを大事に持って帰ろうとしているところでした。あずさちゃんとその取り巻きがやって来ました。
「あら、ゆめちゃーん、とおーっても綺麗なあさがおねー」
「う、うん」
「わたしのあさがおと交換してあげよっか?」
あずさちゃんのあさがおは水やりをおこたって枯れていました。
あずさちゃんは無理矢理ゆめちゃんのあさが
ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜60 『ゆめちゃんとふしぎなおともだち その①』
校庭の片隅でゆめちゃんはあさがおに水をあげていました。
きれいに育ったあさがおは水を浴びて嬉しそうです。
花びらによりそうように、ジョウロから出た水が虹を描き出します。
じぶんが種をまき、ここまで育てたことを、ゆめちゃんは誇りに思いました。
空を見上げると、もこもことした夏の雲があり、木立からはセミの鳴き声が聞こえてきます。もうすぐ夏休み。これはそんな季節にはじまる物語……
『ゆめちゃ
ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜59 『怪物・稲村』
もしもあなたが熱心な高校野球ファンならば、1990年夏の甲子園から始まったあの伝説のことはよくご存知だろう。
90年から92年に渡る夏の甲子園三連覇、91年、92年の春の選抜連覇、三年間の間に五度の日本一という称号を手にするという、今までも、そしてこれからも破られることは無いであろう偉業を成し遂げた岩手県立一関第三高等学校。そしてこの偉業の中心人物こそが稲村亮太である。試合で見せる彼の圧巻の
ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜58 『太陽に乗り遅れた二人』
父親が倒れたという知らせを聞いた時も、その五日後に亡くなったという知らせを聞いた時も、まるで遠い異国の地の天気予報でも聞くみたいに、川島の心にはなんら感情も湧いてはこなかった。せめて通夜と葬儀にだけは顔を出せと、兄からの強い要望で、約十五年ぶりに川島は故郷へ帰った。
電車から降り、あきれるほど見窄らしくなった故郷の街並みを見て、彼はすぐにでも東京へ引き返したくなった。海からの湿った風さえ嫌み
ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜57 『しあわせな家族の肖像』
よく晴れた日曜の朝、福井家のダイニングテーブルで家長である史郎が新聞を読んでいる。
妻の純子がトースト、ベーコン、スクランブルエッグ、そしてコーヒーを載せた盆をキッチンからテーブルに運び、二階にいる娘に呼びかける。
「絵里、朝ごはんよー」
「はーい」
絵里が階段を降りてくる。両親に「おはよう」と挨拶をし、窓辺に行き外の天候をたしかめる。
「わー、いいお天気、気持ちいいね!」
「さ
ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜56 『24年の片思い』
もはやそこは僕のよく知る商店街ではなかった。
学校帰りによく立ち寄った古本屋はなくなり、珈琲は不味いが静かでくつろげる喫茶店もなくなっていた。趣味の良いソウルミュージックを掛けるバーも、安さと量が売りのラーメン屋もみんな、どこかで見たことある店に取って代わられていた。そしてあの定食屋も。
当然だ。あれからもう二十年も経っているのだから。
二十年は物事を変えてしまうのに十分な時間だ。初
ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜55 『小さき者たち』
私が初めて《小さき者たち》を見たのは、就職して南にある大都市に住むようになってからだった。北国出身である私は、それまで《小さき者たち》を見たことがなかった。
なので私にとって《小さき者たち》は、物語の登場人物同様、架空の存在で、ファンタジーの世界の住人でしかなかった。
はじめて見た時も、少し驚きはしたが、みなが言うように嫌悪や恐怖を感じることはなかった。あれはたしか梅雨が明けて、本格的に
ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜54 『馬の娘、再び』
わたしは馬である父と、人間である母を持つ「馬の娘」と呼ばれる女。
以前、わたしは両親がどのように出会い恋に落ちたかを語った。
今日これから話す物語の主人公は今回もわたしではない。わたしの両親でもない。それは、ある一頭の馬である。
ジャンボ。それが彼の名前だ。
ジャンボは父の唯一の親友だった。血気盛んな若者が集う競走馬界においては珍しく、彼はどこかひょうきんな様子で、競争よりも楽し
ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜53 『ゆめちゃん、ろうどく会をするの巻』
ついにその日がやってきた! ゆめちゃんは町のこうみんかんでろうどく会をすることになったのです。
それは二ヶ月まえのことでした。
きんじょにすむたかちゃんという男の子がゆめちゃんのおうちにやってきました。
「やあゆめちゃん。おいらしょうせつをかいたんだ。よんでくれるかい?」
たかちゃんが書いたのはみじかいおはなしでした。
おとこの人がおんなの人にこいをする大人のおはなしでした。
ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜52 『21世紀のスマートな恋愛事情』
待ち合わせ場所についた蓮は、スマートフォンのYouTubeアプリでショート動画を見ていた。いくつかの動画を見たあと、Xを開き、タイムライン上の投稿を見て三つの投稿に「いいね」をしてから、贔屓にする職業野球の球団の公式アカウントが上げた、今夜の先発投手の画像が付いた投稿を「今日も勝つぞ!」と文言を添えてリポストした。そこへ、さくらがやって来て「おまたせ」と言った。二人は付き合い始めてひと月で、いか
もっとみるショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜51 『木曜日の変人』
泣きながら彼は言った。
「どうして嘘ばかりつくんだよ」
「え?」とわたしは答えた。
それがわたしたちの交わした初めての会話だった。
携帯電話もインターネットもない、ゆるやかに、けれど大きく時が流れていた頃の話だ。
わたしはまだ十代だった。
大学に進学し、東京で一人暮らしを始めたばかりで、世の中についてなんにも知らない子供だった。
そもそものきっかけは間違い電話だった。