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ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜56 『24年の片思い』

 もはやそこは僕のよく知る商店街ではなかった。

 学校帰りによく立ち寄った古本屋はなくなり、珈琲は不味いが静かでくつろげる喫茶店もなくなっていた。趣味の良いソウルミュージックを掛けるバーも、安さと量が売りのラーメン屋もみんな、どこかで見たことある店に取って代わられていた。そしてあの定食屋も。

 当然だ。あれからもう二十年も経っているのだから。

 二十年は物事を変えてしまうのに十分な時間だ。初々しい大学生の若者を、いとも簡単にくたびれた中年に変えてしまう。

 あの定食屋はマンションに変わっていた。かつて大勢の人々が飯をかき込んでいた場所の真上で、たくさんの人が寝起きしてテレビを見たり、風呂に入ったりしているのだなと感慨を持ってそれを眺めた。今日わざわざこの場所に立ち寄ってみようと思ったのは、あの定食屋の存続をどこかで願い、もう一度あの人に会いたいと望む自分がいたからであった。


 彼女は「春一番」という定食屋のおかみさんで、どうやら一人で店を切り盛りしているようだった。暖簾をくぐり、引き戸を開けると「いらっしゃい!」と彼女が元気よく声をかけてくれる。カウンターしかない小さな定食屋で、いつも賑わっていた。客のほとんどが独身の男たちで、カウンターの下には油で汚れたヤングジャンプ、漫画ゴラク、週刊大衆などの雑誌が並んであり、振り返った壁には、短冊にマジックペンで書かれたメニューが貼られ、小さなホワイトボードに「本日の日替わり定食」が書いてある。

 厨房で手際よく調理するおかみさんはいつも、AC/DC、アイアン・メイデン、メタリカ、ブラック・サバスといったハードロックのバンドのTシャツを着ていた。それは彼女が持つ柔和な雰囲気とはいくぶんギャップがあるように感じられた。ちなみに店内にはなにも音楽は流れていなかった。

 僕はいつもそこで「メンチカツ定食」を食べた。何度か通う内におかみさんは僕の顔を見ただけで「メンチ?」と笑顔を向けた。僕は照れ臭くて「はい」と目を合わせずに笑って答えた。

 もちろんメンチカツ定食以外のメニューも頼んだことはあるが、春一番のメンチは絶品だった。この街を離れてから、僕は他所のメンチカツが食べられなくなったほどだ。


 たった一度だけ、僕は彼女と店内で二人きりになったことがある。

 それはいつも混み合うこの店ではとても珍しいことだった。

 僕はその時もやはりメンチカツ定食を注文し、待っている間に、食べ終えた他のお客さんたちが帰って行き、僕とおかみさんだけになった。

「はい、おまちどうさん」と料理が来て、割り箸を割りながら僕は思い切っておかみさんに話しかけた。

「あの……」

 客が帰ったばかりのカウンターを拭きながら彼女は僕の方へ顔を向けた。

「前から気になっていたんですが、ハードロックがお好きなんですか?」

 彼女は目をぱちくりさせ、ようやく僕の質問の意図に気づき、顔を下に向け自分が着ているTシャツを見た。その日彼女が着ていたのはAC/DCのハイウェイ・トゥ・ヘルのジャケットがプリントされたものだった。

「ああ、これ?」とTシャツの裾をグイと引っ張ったので、AC/DCのメンバーの顔が不自然に伸びた。

「ええ」

「ううん、違うの。これはね、息子のなの」

「ああ」

「息子の、形見なの」

「あ」

 僕はそういう時にどういう反応をすればいいのかよく分からず、答えに窮してしまった。

「そうだったんですか。すみません」

「いいのよ、気にしないで。CDだとかね、他のものは大方処分しちゃったんだけど、これだけは手放せなくてね」

 そう言って彼女はTシャツをしげしげと眺めた。

「あなたいくつ?」

「21です」

「そう。じゃあ、あの子とはちょうど十歳差ね。あれからもう七年も経つのか」

 僕は頭の中で計算をして、彼女の息子さんが今生きていれば三十代で、二十四の頃に亡くなった、ということを導き出した。

 おかみさんはこちらに背を向け、カウンターから下げた食器を洗いながら、話を続けた。

「なんだかバカみたいな話だけどね、今思えばあたし、あの子に片想いしていたような気分なの」

「片想い、ですか?」

「そう。可笑しいでしょ? 24年間ずーっと片想いだったような気がするの。ほら、あたしここがあるじゃない? だからいつも一緒にいてあげられなくて、決していい母親ではなかったから、一方通行の愛情だったんじゃないかな、って」

「そんなことないですよ」

 僕はメンチカツを一口頬張った。

「こんなに美味しいメンチカツを作ってくれる母親を、嫌いになる男はいませんよ」

 彼女は一度振り返って、こちらを見て笑った。

「そうだといいんだけど」

 それから彼女は洗剤の泡を、水で丁寧にすすいでいく。

「あなたお母さんは?」

「います。鹿児島の実家に」

「あら、鹿児島出身なの」

「はい」

「それは遠いわね、連絡してあげてるの?」

「たまにですけど」

「ちゃんとしてあげるのよ」

「はい」

 僕はまたメンチカツを頬張り、残りのご飯をかき込んだ。

 おかみさんとこうしてゆっくり話をしたのは、その時が最初で最後だった。

 就職が決まり町を離れることになったことを彼女に告げた時、また食べに来ますと言ったのに、僕はその約束を反故にしてしまった。


「また会おう」と誓い合ったのにもう会わない人がいる。

 もう二度と会いたくないと思った人とまた会ってしまうことがある。

「春一番」の跡地に建つマンションの前に立ち、僕は人の縁について考えた。

 24年の片想い、か。

 結婚して娘を持つ身となった今の僕には、彼女の気持ちがよく分かる。僕はあの子にとっていい父親でいられているのだろうか。たとえ一方通行だろうと、僕は娘にいくらでも愛情を捧げるだろう。そしてたとえ一方通行だろうと、それはなんら苦悩を伴わない、心地のよい、すてきな片想いと呼べるだろう。

 風に乗り、どこからか、揚げ物を揚げる匂いが漂ってきた。

 ああ、そうだ。もう一度彼女に会えたなら、きっと僕は、こんな話をしてみたかったのだろう。



・曲 ウルフルズ / かわいいひと


SKYWAVE FMで毎週木曜日23時より放送中の番組「Dream Night」内で不定期連載中の「木曜日の恋人」というコーナーで、パーソナリティの東別府夢さんが朗読してくれたおはなしです。
上記は7月25日放送回の朗読原稿です。

気がついたら僕の頭の中にAC/DCのTシャツを着ている定食屋のおかみさんがいてこんな話を書きました。普段は書いていてイメージキャストとか持たないのですが、このおかみさんに関しては別でした。宮本信子さんが演じているイメージです。

朗読動画も公開しております。どうぞよろしく。



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