見出し画像

ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜59 『怪物・稲村』

 もしもあなたが熱心な高校野球ファンならば、1990年夏の甲子園から始まったあの伝説のことはよくご存知だろう。

 90年から92年に渡る夏の甲子園三連覇、91年、92年の春の選抜連覇、三年間の間に五度の日本一という称号を手にするという、今までも、そしてこれからも破られることは無いであろう偉業を成し遂げた岩手県立一関第三高等学校。そしてこの偉業の中心人物こそが稲村亮太である。試合で見せる彼の圧巻の投球に、いつしか人々は彼のことをこう呼んだ。

「怪物・稲村」と。

 甲子園という舞台ステージはまさに「怪物・稲村」のワンマンショーだった。また、端正な顔立ちから女性ファンも多く、「稲村ガールズ」と呼ばれる女性ファンが客席から彼の顔写真をつけた団扇を振った。

 高校で野球部に所属していた私は、同学年の稲村の存在をテレビで知った。それは人生において初めて打ちのめされるような経験だった。

 歴史を語る上で、たらればを持ち出す事が如何に愚かな事か、私は重々承知しているつもりだが、それでもやはり、私は時折こう想像することをとめることが出来ない。

 もし、稲村がプロの道に進んでいたとすれば、いったいどんな名試合を繰り広げていただろうか? どんな記録を樹立いていったであろうか?

 そしてそんな想像を膨らませる度に、私の頭の中にはこのような疑問も浮かんでくるであった。すなわち——稲村自身、プロ入りしなかった事を悔やんだことはないのだろうか?

 数年前に、私は稲村についての本を書こうと思い立ち、その時にだめもとで取材を申し込んだらなんと彼が引き受けてくれたのだった。なにせ彼は野球に関する取材は一切受け付けないと評判だったのだ。そうして私は『怪物・稲村』という一冊の本を上梓した。

 以下に本の内容を大まかに紹介する。興味を持った方は拙著にあたっていただけると幸いである。


 稲村亮太は1974年5月23日岩手県一関市に生まれた。父は開業医で、裕福な生活を送る。三つ年上の兄の影響で野球を始めたという。

 小学生に上がる頃には隣町にまでその名は響き渡り、少年野球のチームから誘いが絶えなかった。しかし、稲村には問題があった。野球がまったく好きではなかったのである。

「実際やってみるとね、なんというか、あんな卑しいスポーツはないよ」と稲村は語った。

「裏のかきあい、他人を欺く事ばっかりしてるでしょ? 大体どこの国の文化や法律、宗教なんかでもね「盗み」というのは犯罪であり罪なんだよ。それなのに野球選手ってのは白昼堂々「盗塁」を行なって、成功すれば観客たちは拍手喝采。あんなの狂気の沙汰だよ」

 私は稲村のこの発言に衝撃を受けた。野球の神様から稲村に余すことなく一身に注がれた寵愛が、一方通行の愛だったとは、なんという皮肉であろうか。

 それでも彼が野球を続けた理由は、その方がなにかと都合がよいという打算からであった。

 中学校の頃は好きな女の子が野球部のマネージャーだと知り、彼女の気を惹くために野球部に入部した。

 また、受験なしで高校への推薦入学目当てという理由もあった。

 数多の強豪校が稲村に誘いをかけたが、結局稲村が選んだのはその中で最も野球の弱い岩手県立一関第三高等学校。理由は「実家から通いやすいから」であった。

 稲村を擁した一関第三高校野球部は創部39年目にして初めて甲子園に出場し、史上13校目の初出場・初優勝を飾った。そして、決勝戦で稲村は投球数わずか68球で夏の甲子園史上初の完全試合達成者となった。深紅の優勝旗が初めて東北の地に渡った瞬間であり、俗にいう「白河の関越え」が果たされた瞬間であった。

 そこからの快進撃は改めて記す必要もないだろう。稲村はすべての決勝戦において完全試合を達成した。「すべての決勝戦で」という所に彼のスポーツマンシップではなく、ショーマンシップを感じる。

 92年秋、稲村が自身の進路について会見を行った。当然プロ野球入りするだろうと思っていた我々は衝撃を受けることとなる。

「えー、自分はプロには行きません。進学します。音楽の専門学校に行きます。ロックミュージシャンになるという夢を叶えたいです」

 中学時代、ヴァン・ヘイレン、ガンズ・アンド・ローゼズに出会った稲村が本当にやりたかったことは、野球ではなくロックだったのである。

 家族の猛反対を押し切り、勘当同然で稲村は93年春に上京し、渋谷区の音楽専門学校に通い、95年に卒業と同時に大手メジャーレーベルと契約し、デビューした。あの「怪物・稲村」というブランドを全面的に押し出したいレーベルの意向でデビューシングルは野球用語が使用され「恋のスイッチヒッター」というタイトルにされた。その結果、稲村はバイセクシャルなのではないかと一時期週刊誌を賑わせた。時は日本で最もCDが売れた時代である。稲村のデビューシングルとアルバム「The Monster」はミリオンヒットを達成し、その年の紅白歌合戦にも出場し、審査員だったヤクルトスワローズの古田敦也選手に「今からでもウチのチームに来てほしい」と声を掛けられ会場は盛り上がった。

 しかし、「稲村は、野球の才能ほど、音楽的才能を持ち合わせていない」というのが、世間の大方の意見であった。アルバムも二枚目三枚目と出してもセールス的には右肩下がりで、五枚目のアルバムを出したところで契約は打ち切られ、他に声をかけてくれるレコード会社もなかった。

 その後稲村は貸スタジオとライブハウスを経営し、後輩たちに活躍の場を提供していたのだが、コロナ禍を機にそれらも廃業してしまった。

「きみの取材を受けようと思ったのはね」と稲村はインタビューが終わったあとで私に言った。

「あの頃、俺の音楽について好意的に書いてくれてたのは君だけだっただろ?」

 たしかに私は音楽雑誌のライターをしていた頃、彼のセカンドアルバムを絶賛する記事を書いた。賞賛の気持ちは今でも変わらない。

「あの記事はすごく良かったよ。君からの誘いだったから引き受けたんだ。礼が言いたくてね。ありがとう」

「稲村さん、失礼は承知で聞きますが、プロ野球選手にならなかったことを、後悔したことはありませんか?」

 稲村は煙草を一口二口と吸い、永遠とも思えるような沈黙のあとで言った。

「まったくないね」


 あなただったらどうするだろうか?

 ある分野において歴史に名を残すほどの才能を持ちながら、他にもっと、人生を懸けてやりたいことがある。そんな時、あなただったら、稲村と同じような決断を下せるだろうか?

 私には出来る気がしない。おそらくあなたも一緒なんじゃないだろうか?

 だからこそ我々は、己の生きる道を貫く彼らのような存在を「怪物」と呼び、彼らを、畏れ、憧れの眼差しを向け続けるのだろう。



・曲 岩崎良美 / タッチ


SKYWAVE FMで毎週木曜日23時より放送中の番組「Dream Night」内で不定期連載中の「木曜日の恋人」というコーナーで、パーソナリティの東別府夢さんが朗読してくれたおはなしです。
上記は8月15日放送回の朗読原稿です。

僕は音楽作ったり、映画作ったりもしているのですが、どちらも品質を追求していくと最終的にお金の問題になります。いくらレベルを上げようといい武器や防具を揃えないと先に進めないRPGゲームのようなものです。その点、小説はアクションゲームさながら己の腕一本でどうとでもなる。 僕は文章表現のそこに一番魅力を感じるのです。最近つくづくそんなことを思います。

朗読動画も公開中です。よろしくお願いします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?