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ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜58 『太陽に乗り遅れた二人』

 父親が倒れたという知らせを聞いた時も、その五日後に亡くなったという知らせを聞いた時も、まるで遠い異国の地の天気予報でも聞くみたいに、川島の心にはなんら感情も湧いてはこなかった。せめて通夜と葬儀にだけは顔を出せと、兄からの強い要望で、約十五年ぶりに川島は故郷へ帰った。

 電車から降り、あきれるほど見窄らしくなった故郷の街並みを見て、彼はすぐにでも東京へ引き返したくなった。海からの湿った風さえ嫌みたらしく首筋にまとわりついた。

 実家で兄と兄嫁と会い、初めて中学生の甥と会った。

 その日の晩に通夜があった。近所の者たちや、父親と付き合いのあった者たちが、兄の隣にいる川島を、珍しい生き物でも発見したかのように見て、なにか囁き合った。通夜が終わり、みなが寿司を食ったり酒を飲んだりしている中、居場所のない川島は瓶ビールを片手に、外へ出て煙草を吸った。室内の人々の話し声が川島にも聞こえた。

「ああ、あれが例の次男坊か、東京で役者だかなんだかやってるって?」

「そうそう、あれがもっとしっかりしてたら徳さんももっと長生きできたろうに」

「長男の方は立派に取り仕切ってたいしたもんだ」

川島はそのまま敷地を出て行き、瓶ビールを地面に叩きつけた。瓶は割れずに転がって行った。瓶とはこうも頑丈なのか、と存外冷静な頭で川島はそんなことを考え、あてもなく歩き始めた。湿った風が鬱陶しく、川島は喪服のネクタイを緩めた。とにかく酒が足りなかった。

 遠くでぽつりと灯りを見つけ向かってみると商店が一軒あった。店構えは新しいが、中身はもう五十年もやっているような古臭い商店で、川島には見覚えのない店であった。

 川島は酒を抱え帳場に向かった。店員は中年の女で、酒を袋に入れながら川島をじっと見た。その視線が鬱陶しく、川島は俯いて目を合わせなかった。

「……川島くん?」と女は言った。川島は顔を上げて女を見た。まるで知らない醜い女だった。

「あ、わたし、中村。中村久美子。覚えてる?」

 川島の学年で中村を知らない男子生徒はいなかった。彼女は学年で、いや学校で一番器量の良い娘であった。男子生徒はだれもが中村に憧れ、他校からもわざわざ中村を見に来る者もあった。そんな中村が変わり果てた姿で、こんなちんけな商店の帳場にいることを受け入れるのに川島は時間を要した。彼女の容姿をここまで変えてしまったのは時の流れなのか、彼女自身の生き方なのか、川島には判断できなかった。

「ああ。もちろん」と川島は答えた。中村はそこで初めて川島の装いに目を向け、彼の帰郷の目的を悟り、言葉を詰まらせた。

「川島君って、役者やってるんだよね? わたし応援してるから」

「ありがとう」とそっけなく答え川島は店を出ようとした。そこで立ち止まり振り返って久美子に声を掛けた。

「この店は何時までやってるの?」

 久美子は肩をすくめてから言った。

「最後のお客さんが帰るまで」

 川島はふっと笑って辺りを見渡してから言った。
「よかったら散歩に付き合ってくれないか?」

「ええ、いいわよ。ちょっと待っててもらえる? お店閉めるから」

川島は外で缶ビールを飲み煙草を吸いながら待った。久美子が出てきてシャッターを閉める。

「川島君、刑事ドラマ出てたでしょ?」自分から誘っておいて何も話さない川島との間にある沈黙に耐え難く久美子は言った。

「ああ」と川島は返事をした。もう十年以上前のことだった。川島はテレビドラマに出演した。容疑者の自宅付近を捜査する刑事たちの聞き込みに答える大学生役だった。その時の台詞を川島は今でも覚えている。
「さあ、しばらく見てませんね」

 川島は久美子にどういう筋道を経てあの商店にたどり着いたのか尋ねた。彼女は十八で結婚と出産をし、二十歳のときに離婚した。息子を実家に預け、彼女は大きな町で夜の仕事をして三十を機に実家に戻り、退職し暇を持て余していた父のために商店を開店した。爾来昼には父親が、夜には久美子が店に立っている。息子はもう社会人となり、地元を離れた。

 二人の足は自然と母校である中学へ向かった。校庭をぶらぶらしながら川島は思わず自分について語り始めた。

「親父が死んだんだ」。久美子は黙って川島の横顔を見つめた。

「兄貴から連絡があった時、俺はなんとも思わなかった。親父と俺は少しもいい親子じゃなかった。キャッチボール一つしてもらった記憶もない。お袋がいなくなってから俺たちの間に立つ人がいなくなってますます関係は悪くなった。最後の最後まで親父は、俺が役者をやることに反対だった。でも、今日親父を見た時、これまで頑なに貫いてきた自分の人生とはなんだったんだろうって思ったよ」

「そうなんだ」と久美子は言った。

「役者をやっていて一番難しいのは、仲が良い家族を演じる時なんだ」と言って川島は笑った。だが、久美子は笑っていなかった。

「わたし、ずっと川島君が羨ましかった」

「え?」

「好きなことを見つけてひたすら挑戦しているのを遠くから見てて羨ましいって思ってたんだ」

 久美子は空を見上げた。川島もつられて空を見る。星が近くで輝いていた。そうだった、俺はこういう所で育ったんだった。と川島は思った。

「ここから見ると星ってさ、仲良く寄り集まって輝いているように見えるけど、実際はみんなてんでばらばらの場所にいるわけじゃない? わたしたちが勝手にそう見ているだけで、本当は、みんな寂しいのかもね」

 それを聞いて川島は、その人にはその人の人生がある、というごく当たり前のことを実感として持ち、俺には俺の、中村には中村の人生があって、そして当然親父には親父の人生があったのだということに思い至り、胸が締め付けられた。

「俺たちはまるで、太陽に乗り遅れた二人だな」と川島は言った。

「なにそれ?」と久美子はふっと笑って聞いた。

「昔出た舞台にこんな台詞があったんだ」

「へえ」

「太陽はみんなを乗せて、遠くへ行ってしまった。俺たちはこの暗闇の中を生きていくんだ。って、そんなふうに続く。この台詞を上手く言うために、俺はもっと早く、今日という日を過ごしておくべきだったのかもしれない」

「名優ですね~」

 川島は笑った。久々に誰かに対し素直に自分を表わせた気がした。

「ありがとう。救われたよ」

「お互い様ってことね」そう言った久美子の顔は、あの当時の美しさを湛えていた。

 それはまるで、この日のために地上に舞い降り、暗闇を照らし出してくれる、天使のような顔だった。



・曲 桑田佳祐『孤独の太陽』


SKYWAVE FMで毎週木曜日23時より放送中の番組「Dream Night」内で不定期連載中の「木曜日の恋人」というコーナーで、パーソナリティの東別府夢さんが朗読してくれたおはなしです。
上記は8月8日放送回の朗読原稿です。

この話はほんの少し前に書いたのですが、何がきっかけで書こうと思ったのか、何を思って書いたのか、まるで思い出せません。というか書いている時の記憶があんまりないです。そういうことってあるんですね。

朗読動画も公開中です。よろしくお願いします。


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