紬~つむぎ~

人生は旅。ただここに在る。宇宙、大地として、全体、として。音楽、言葉と暮らす。美しさとは循環。文具と雑貨と手帳が日々の楽しみ☕自分の心の回復の記録でもある。#藤井風 #宇多田ヒカル

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    「自分を守る」というテーマの文章を集めています。自分のものも、他の方のものも一緒に並べております。

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最近の記事

不安や悲しみの渦中で次のスタートの合図になるもの、それは手帳の言葉

手帳そのものって目的ではなく、手段なはずなんだけれど、でも、手帳のことを考えたりすること自体とても楽しい。それと、手帳を読み返すのが本当に面白い。自分はかつてこんなことを考えていたのか、と驚かされる。手帳に書くことで出会える自分や、新たな気づきが、自分を次に向かわせてくれる。 私がnoteを始めたきっかけは、人間関係の中で大きな失敗をしたことだった。怒りとか恥ずかしさとか、何より強い怒り、憎しみみたいなものまで生じてしまった。そして、その失敗自体だけではなく過去の記憶も苦し

    • 気づきへの渇望 〜そして誰かのために〜

      10年後、15年後、 私はどんな仕事を どこでしているだろうって考えた。 15年後。以前の世の中なら既に定年退職している。 私が10年後のことを考えたのは、初めてだ。子どもの頃、私に大人として生きる人生は用意されていないと思っていた。 どこにいようが「気づきと成長を渇望し続ける自分」でありたい。 学びと成長に終わりはない。 言葉が 本が 誰かとの関わりが 私に気づきを与えてくれ 私を守ってくれる 気づきがあるから 希望や生きる力となり 守ってくれるものがあるから

      • 自分がいいかげんでいれば、ほら、そこは実にいい加減

         私はホントになまけもの。 研修や会議で同業者と話すたび実感する。 「私は努力が嫌いで、勤勉に生きられない」と。この前、占いのサイトで誕生日などを入力したら「あなたは無意識のうちに楽な方へ流れていく」と書かれた文面がドンと出てきて、苦笑、いや大笑いした。  ずっと真面目だと思って生きてきたし、周囲の人にも真面目だと言われてきた。たまに本質を見抜いて、私のちゃらんぽらんな言動に本気で怒る人や、「実はいいかげんですよね」と言ってくる人がいて、ちょっと傷ついた。ちょっとしか傷つ

        • ゆたけきもの

           洗濯機を何回も稼働させながら部屋の整理をしていたら、ペンの買い置きの多さに苦笑した。「なくなった時困るかも」という不安から買っていた。たくさんあっても心が豊かじゃなかった。  物が多くあっても、それらをきちんとお手入れしながら使っていれば、豊かな暮らしだといえる。  豊かさとは心のあり方なのだなと改めて思う。   藤井風の曲作りの様子や日産スタジアムでの思いなどをNHKの番組で知り、改めて彼の曲を聴く。「満ちてゆく」を聴くと、これまでの自分を温かく包んでやれるような気

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          減らしたくて減らすのに、また増える。それが「自分の好きなもの」

           小さい頃から紙のノートにいろいろ書くのが好きだ。もし今までの手帳やノート(授業ノートなどは除いて)を捨てずに全部取っておいたとしたら、段ボール一箱では納まらない。  荷物を減らしたくて、情報をiPadに集約させようと Kindleにカレンダーアプリ、Evernote(今は解約済)をフル活用したけど、紙のノートにペンで書いて、切り抜きを貼って、という楽しみはやっぱり手放せない。  Kindleを使うことで、本の量は激増しなくはなった。仕事のタスクはカレンダーアプリと Pl

          減らしたくて減らすのに、また増える。それが「自分の好きなもの」

          その優しさに甘えていないか

          下の娘のことで、すごいと思っていること。それは、サッと体が動いて誰かのために動こうとすること。いつの間にか、家事も手際良くこなすようになっていた。 一緒にご飯やデザートを作るのが楽しくて、炊事の時はついつい「一緒にする?」と声をかけたものだった。 最近は、声をかけるのをやめて、本人の出方を見るようにしている。ある時ふと、私は彼女に甘えすぎているかも、と思ったのだ。家族で分担している家事はさっさと済ませてしまって、リビングで宿題をする彼女。別室でこもる長女と違って声をかけやす

          その優しさに甘えていないか

          別に怒ったっていい〜心と体を大事にしたいなら〜

          いい気分でいることで、それが周りに波及するのはわかる。 楽しそうにしていることで、周りも自然と行動する、のももちろんわかる。 困っているから助けてって穏やかにお願いできたら、気持ちよく応じてくれるのもわかる。 だけど。だけど。 家族の間で、長い間「どうせしてくれるだろう」「私は学校の勉強があるし」「風邪ひいてても家事してくれたことあるし」っていう思いが定着してたら? 優しさや穏やかさが、結局は「甘えても大丈夫」って思いを抱かせるなら? 怒ったっていいんだと思う。どう怒るか

          別に怒ったっていい〜心と体を大事にしたいなら〜

          弱い自分でよかったと思えることもある

           いつもビクビクしながら生きてきたのだけど、そして、臆病さゆえの「見せかけの優しさ」で得をしたことも損をしたこともあったけど。 仕事の中で、他の人より危機管理の感覚が鋭かったり、顧客にあたる人とカウンセリング的対話ができて、事がスムーズに進むのはありがたいと思う。 それと「親には感謝しないと」と誰彼かまわず言ってしまう人にならなかったのはよかったかもしれない。

          弱い自分でよかったと思えることもある

          自己肯定感を回復させるには、とにかく何かを信じてしまうしかない(できれば苦労しないのだが)

          回復の記録を残すことも、自分との出会い直し 私はしばしば「久しぶりに自分の本心に向き合えた」とか「認識や記憶の力が回復した」と書くが、そういうときは、それまで何重にも自分を覆っていた薄い膜が剥がされたような感じがしている。その膜は弱い自分を守っていたもの、あるいは自分を外に向けて開くのを阻んでいたもの。膜が剥がれたらダメな自分がむき出しになって生きていけないと思い込んでいたのだと思う。 物事の認識能力を壊滅的に失った自分も、回復させた自分も、あるいは元々ある程度の認識能力

          自己肯定感を回復させるには、とにかく何かを信じてしまうしかない(できれば苦労しないのだが)

          これが「力が抜ける」ということか

          「ひとりの時間がほしい」と強く思った数日後に熱が出て、束の間だけど、家で寝るという形で願いが叶った。家族が帰宅するまでの数時間だったし、本当は活動したかったけど、ただ寝ているしかない、そんな一人時間が実現。 夜少し楽になった時、一日休んだだけで翌日の仕事は忙しくなるのに、と気持ちが重くなった・・・とその時。 「緊張しようが、気合いを入れようが、仕事の量はそう変わらない。基本的な効率化はもうできているのだし。いったん出勤したら全然やる気が出ずに怠ける、なんてことには絶対ならな

          これが「力が抜ける」ということか

          生き延びた仲間へ

          虐待サバイバーならではの、働きづらさや生きづらさをサポートする事業をしている人がいることを知った。世界に光が射すのを感じた。 自分もそういうことをライフワークにしようと考えたことがあったが、自分自身が安定していないしな、と今まで中途半端な気持ちのまま、大卒後からずっと同じような仕事をしてきている。転職まで考えなくても、そろそろこのことに向き合うべきじゃないかなというメッセージを度々受け取る今日この頃。今の仕事からの「逃げ」だと思う必要はないよというメッセージ。今そこにいても

          生き延びた仲間へ

          変化は怖い

          大きな変化の兆しを感じていたタイミングで、体調を崩した。発熱。節々の痛み。喉の炎症。 うん。怖いんだな、変わることが。 変わらなくていい言い訳をたくさん探すような行動も、ついしてしまう。自己否定の沼にも足をとられそうである。しかも自ら足を突っ込んでるのだ、こういうときって。 恐る恐るドアを開けては閉め、閉めては開け、そんなことの繰り返し。でも、何があったって、たぶん大丈夫なんだよな。恥をかいたって、命取りになるわけじゃないし、今までの方がよほど強烈な恥ずかしい経験をしてい

          恐る恐るドアを開けて

          扉の向こうに行けないのは、自分が扉を開けないで、今いるところに留まろうとしているから。 今いるところが苦しくても、未知の世界に行く怖さの方が勝ってしまうというのはよくあること。 こういうのもいわゆる「引き寄せの法則」で ちょっと視点を変えて説明することができる。こんなところは嫌だ、別の世界に行きたい、と強く願うことが実は「今ここにいる」状態を強化してしまう。 だったら、もう扉を壊すなり開けるなりするしかない。こういう時は、考えていたらだめ。体を動かすしかない。 考えてい

          恐る恐るドアを開けて

          守られているという状態に気づく

           守られている、と思えることで 人は自分の体の重みも受け止めることができるのかもしれない。そのことに気づけない時は、自分自身の存在を許せなかったり、あるいは自分の存在自体を実感できなかったりする。  そういう意味で、人は他者によって生かされているといえるのかもしれない。  かつて、私は終始「闘う」モードで生きていて、家で過ごせる休日は長時間死んだように眠る、という暮らし方をしていたことがある。そういう頃の自分を思い出すと、日中は常に歯を食いしばって、全身に力が入った状態でい

          守られているという状態に気づく

          ゆるむ

           許すって何だか理解できないことだと、ずっと思っていた。許せないと思ってしまうと、もうだめだった。  最近になって初めて「まあいいか」「こんなもんかな」「こういう人もいるのか、こういうこともあるのか」「どうでもいいことだな」という感覚を知った。  最近、「うわ、今すごく力んでるな」と自覚した。  「ゆるむ」って 他人に対しても、自分に対しても優しいことだなと思った。

          「むしゃくしゃ」は自分と向き合うチャンスだった

           最近感じる「むしゃくしゃ」が火照りとセットでやってきたりするので、「ただの!」更年期にかかわるものだろうと思って、以前になぜか買っていた「命の母」(買った頃は、たんなる睡眠不足から諸症状が出ていただけで、更年期、、、ではなかったと今になっては思う)を飲んでみたりしていた。  それと、長い間私は家にある「浪費の結果ため込んだモノ」を見ていて溜息をつき、こんなに家がすっきりしないからむしゃくしゃするんだと思ってもいた。仕事の効率もよくないし、キャパ小さいしなあ、私、と日々の働

          「むしゃくしゃ」は自分と向き合うチャンスだった