守られているという状態に気づく
守られている、と思えることで 人は自分の体の重みも受け止めることができるのかもしれない。そのことに気づけない時は、自分自身の存在を許せなかったり、あるいは自分の存在自体を実感できなかったりする。
そういう意味で、人は他者によって生かされているといえるのかもしれない。
かつて、私は終始「闘う」モードで生きていて、家で過ごせる休日は長時間死んだように眠る、という暮らし方をしていたことがある。そういう頃の自分を思い出すと、日中は常に歯を食いしばって、全身に力が入った状態でいた。怒りの感情も常にお供にしていた。睡眠の質はとても悪かった。体のそこここになんらかの炎症があったように思う。表情も年を追うごとに険しくなっていっていた。
力を抜く、っていうことが全然わからなかった。あることをきっかけに、人は自分から奪う存在だと思い込んでいたからか、人と接するときは気が抜けなかった。
私がこうなった要因として大きいのは、親との関係が難しかったことだと思うが、親の事情を考えた時(親はどうしてあのような子どもへの関わりしかできなかったのか)、当然彼らの育った家庭環境や社会状況にも目がいく。彼らもまた闘わざるを得なかったんだろうと。そして、彼らは闘うことを選び続けたのだ。自分がほっとすることを許されない、許さない状況で生きることを選んだのだ。
誰かを許せないとき、自分もまた許されていない。自分ができないことを他の人がするなんて許せない。こういうとき、自分の存在も「許せない」まま生きているように思う。「守られている」感覚を知らないというか、気づいていないというか。
親以外の大人からの、肯定的な接し方に触れたときから、少しずつ自分を肯定的に受け止めたり、他者に感謝したりすることができるようになって、そして、なんと自分の子が言ってくれる「ありがとう」にも驚いたりして(喜びとともに)、今 生きていてよかったのかもしれないと思うようになった。「奪われないように」と握りしめていた拳(何を握りしめていたのかはわからない)を緩めることができるようになった。奪われないように、と緊張していた時には聞こえなかった、自然の音や本の登場人物の声にも耳を傾けられるようになった。
「何かに守られている」という感覚は、人が生きていくための土台の部分に欠かせないものなのだろう。仕事などで、自分の存在自体を傷つけながら生きざるを得ない人を知るたびに実感する。
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