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これが「力が抜ける」ということか

「ひとりの時間がほしい」と強く思った数日後に熱が出て、束の間だけど、家で寝るという形で願いが叶った。家族が帰宅するまでの数時間だったし、本当は活動したかったけど、ただ寝ているしかない、そんな一人時間が実現。

夜少し楽になった時、一日休んだだけで翌日の仕事は忙しくなるのに、と気持ちが重くなった・・・とその時。
「緊張しようが、気合いを入れようが、仕事の量はそう変わらない。基本的な効率化はもうできているのだし。いったん出勤したら全然やる気が出ずに怠ける、なんてことには絶対ならないのだから、緊張感や憂鬱感を抱いて出勤する意味は全くない」というようなことを思った。
すると、本当に「フッと力が抜けた」「フッと気持ちが楽になった」自分に出会ったのだった。

信じてもらえないかもしれないし、自分でも信じられないが「生まれて初めて肩の力が抜けた」と感じた。小さい頃から「いつも肩に力が入っている」と言われ続けていた自分。力が入っている、とか、力を抜くというのがどういうことか全くわからなかった。いつも力が入っているのが当たり前だったからだろう。

休んだ翌日。これまでのような緊張感とか気合いというものとは違う感覚で始業時間を迎えた。「今できること」に集中している自分がいて、安心感を覚えた。あれもこれも、と欲張って息切れする自分はちょっと影を潜めていた気がする。

さて、「力を抜く」ことで私は安心感を抱いていたが、力を抜くには、自分の土台に安心感も必要だった。何度も書いているのでしつこいが、私にとって「他人は私を批判し、何かを壊そうとする存在」で「自分は欠如している部分が多すぎて、とんでもない失敗をする人間」だった。外の世界に出るには、他人から笑われないように気合いを入れることが必要だった。つまり、全身に力が入っていて、どうしても周りに引かれるような言動満載の振る舞いが発現しがちだったのだ。だから、また他人から「見下される」ような状況も生じたのだ。

「大丈夫」「なんとかなる」が、脱力した自分を引き出したらしい。これまで社会に出てから、二、三人そういう言葉をかけてくれた人がいたのが、たぶん私の人生の転機だろう。ひとりは、夫の母。ふたりめは、職場で出会った素敵な女性の先輩。
さんにんめは、他でもない自分だ。自分が大丈夫だと思えないうちは、だいじょうぶにはならない。自分が「なんとかなるな」って思ったことがなかったとは。よくも今まで生きてこられたものだ。これは、ずっと緊張しっぱなしで、とにかく交感神経優位の生き方をずっとしてきたってこと。心拍数がいつも高いのは、このせいだろう。

50代が近づいて初めて「肩の力が抜ける」ことを知る、なんて驚きだ。でも、これは本当の話。人は何歳になっても変われるんだなと思う。

 

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