その優しさに甘えていないか
下の娘のことで、すごいと思っていること。それは、サッと体が動いて誰かのために動こうとすること。いつの間にか、家事も手際良くこなすようになっていた。
一緒にご飯やデザートを作るのが楽しくて、炊事の時はついつい「一緒にする?」と声をかけたものだった。
最近は、声をかけるのをやめて、本人の出方を見るようにしている。ある時ふと、私は彼女に甘えすぎているかも、と思ったのだ。家族で分担している家事はさっさと済ませてしまって、リビングで宿題をする彼女。別室でこもる長女と違って声をかけやすい。でも、あるときの次女の言葉で「別に家事をするのはいいけど、姉がしないのが当たり前になっているのではないか」と複雑な思いを抱えているのを感じたのだ。
もし、一緒に何かを作りたいと本人が思うならこちらが声をかけなくても、台所の物音にすぐに反応して「しようかー」って言ってくる。そして、その回数は結構多い。。。
こちらが本当に大変な時は必ず2人に声をかける。当たり前だけど、ついつい次女に甘える、ってことが続かないようにしようと思ったのだった。
話は変わるが、というか本当に書きたかったのはここから先のことだ。
以前職場に無神経なことをついつい口走って、周囲を怒らせる人がいた。私もその人の言動を軽率だなあと思ったことがある。驚いたのは、心身のバランスを壊しながらも仕事を続けていた同僚に「はっきり言って私、あなたに振り回されて迷惑なんですよね」と彼女が公衆の面前で、本人に面と向かって言っていたことだった。一方で、その無神経な人を「優しい人だ」という人もたくさんいて、私は首を傾げていたものだった。その後彼女が間もなく遠いところに異動になって、会うことはなくなったが、彼女が優しい人なのか、そうじゃない人なのかがよくわからないなということを時々思い出すことがあった。
さて、その後、彼女自身が大きな病気にかかってしまったらしいということを人づてに聞いた。過労の末の病気ではないかと言われていた。優しくて、人に気を遣っていたしねという人もいた。
その人は、相手によっては優しさをいっぱい注ぐ人だったかもしれないが、一方で他者の心を刺すような言葉を吐く人でもあった。優しい彼女に甘える人がたくさんいたのだとしたら、彼女はその甘えられた疲れを「自分にとってどうでもいい人」を雑に扱うことで癒したか、あるいは癒やすことができずに自分の体を酷使したか。生き方と病気の因果関係は、わからない。ただ、「優しい」人がずっといつも優しくいられるか、というとそれは難しいのではないか。本人がそうありたいと思うのは素晴らしいことだが、周囲が「あなたの優しさをみんなにちょうだいね」と一方的に身勝手な期待を寄せることではないのだ。
大きな病気になってしまうくらいなら、彼女がもっとみんなにまんべんなく「ちょっとずつ意地悪」あるいは「ちょっと怒りっぽい」くらいでいた方がもしかしたら別の生き方があったのではないかと思う。
人間誰しもズルさや弱さがあるのだ。その弱さが毎日一緒にいる家族にバレない、なんてことの方がよほど不自然だと思う。だから、自分の周りに「いつも優しい」人がいて、いつもその人に甘えている、というようなことに気づいたら、ちょっと立ち止まってみてもいいのかもしれない。
幼い子のかわいい背中に、大人たちがいろいろなものを背負わせようだなんて、通常なら思わないだろう。そういう注意深さや敬意のようなものは、少し大きくなった子ども、そして大人の背中に対しても払われていいのではないかと思う。優しい人が、自分の思いを誰にも告げられないまま抑え込み続けて、ポキっと折れてしまわないように。
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