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白白とお呼びください。 言葉を弄び、衒學的です。 好きなものは好きですが、嫌いなものは…

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白白とお呼びください。 言葉を弄び、衒學的です。 好きなものは好きですが、嫌いなものは嫌いです。 象牙の塔に住みたいと思っていましたが、最近は竹林の方が好ましいです。 アイコンは@nakano_no_no様

最近の記事

ぬるまな季節

ふとした時に、人肌恋しくなる。そんな季節がやってきたような気がする。気がする、というのは、季節の変わり目の曖昧な時期であるから。 夜は冷える。底冷える空気が漂い、むしろ頭脳労働に疲れた身には心地よいほどである。ただ、もう半袖でいるには少し難しくなった。衣替えの季節になった。やや煩わしい。 友人の宅に、昨晩立ち寄った。家の中は少し雑多としていたが、それが郷愁を感じさせるようだった。田舎の祖父母宅を想起していただければよいと思う。進められるがままに、ビーズクッションにもたれ掛かり

    • 突きつけられる銃口,38口径

      人の目が怖い.街行く人が,ぎろりと視線を向ける度に,頭の中を覗かれているような気がする.自分の一挙手一投足がじろりと見つめられる瞬間が恐ろしい. これはなにも現実世界に限ったことではない.SNSでもまったく同様で,私が何か発信した内容がすべて誰かに覗かれているような気がする. この他者の眼差しは,さながら突きつけられる銃口である.38口径.警察権力の特権的象徴である暴力装置と同義である.私という人間存在は,内的な自我同一性によって規定される精神的存在性に本質があり,と同時

      • 自己嫌悪という時限爆弾

        自我――アイデンティティは青年期に確立されなければいけない.そうでなければ,ひどく不安定な塩梅で積まれた積木のような人生を送ることになるので,自我が消える恐怖とともに日常を過ごすことになる. 私の中ですくすくと肥大した自己嫌悪は,いまや私自身を喰らいつくすほどである. 最近,周囲の環境から圧えつけられているようなきがする.別段,意図的に圧えつけるというより,恣意的に振る舞っているだけのようである.ただ,結果的に私の自己肯定感は,押し潰され,どろどろと変容し,自己嫌悪へと姿

        • 文學的な眼鏡をかけて

          書かれたものをよく読むものは,なぜか幻惑的に映る. 私はよく本を読む方々と関わる機会が多い.よく本を読むというのは,二重の意味で,頻度と熟読度合いを掛けている.本といっても千差万別で,専門書を読む人もいれば,小説を嗜む人もいる.読書家というのはどちらかというと,専門書をよく学術の人間というよりかは,在野で分野横断的に本を読む人のことを指す気がする. その中でもとくに文學を口にする人がいる.ときには愛書家――ビブロフィリアと言っても差し支えないほどの人がいる.そういう人たち

        ぬるまな季節

          じんせい、くるしいね

          指導教員と,先輩後輩,級友から精神科を受診することを勧められている. この一文だけで,ひどい眩暈がするようだが,私はいたって正常であり,だからこそ異常なのだと思う.正常だと思い込みたい,という精神の表れだけで,受診の予約を取ることさえままならなかった. 来週末に,精神科に行く.お医者さんに今度はなんて言われるだろうか.怖い. いや,別に精神科なんて変わった場所ではない.前にも通っていた.そういう時期になってしまったのだと思えばいい.季節性のものだ.季節性のうつ病.ただの

          じんせい、くるしいね

          強迫的情念に身を任せながら

          タイトルは『強迫観念駆動人生に愛を込めて』に感化されています.自分のお気持ち文です. 以下,本題.今回は,ラフな口調で書いてます.自動記述のつもりです. 毎日,人生を無駄にしているような気がする. 自己弁護が見苦しいのは承知だが,自分だって毎日論文読んだり,コードを書いたり,新しい知見であったり技術を積極的に取り入れようと努力している.でも,どうやってもすごい人たちには追い付けない.なので,きっと何かしら自分は無駄が多いんだろうなと思う. じゃあその無駄を減らすにはど

          強迫的情念に身を任せながら

          さくら

          「さくら」と書くと柔らかさが伝わるようでなんとなく気に入っている。あのふんわりとした柔らかな花弁を集めて雨のように降らせたい。 蕾が出て、大きく膨らみ、花が咲き誇り、そして散る。しばしば、桜花の一生は、ひとの一生に喩えられる。なんて儚いんだろう。「さくら」を手に取ると、毎年そんなことを思う。私たちの人生は、あの薄い桃色の花弁ほどの厚みしかないのだろうか。愛情も恋慕も、あの薄さに折り畳まれてる。きっと、「好き」という言葉は1ミリメートルにも満たない薄っぺらさなのかもしれない。貴

          夏を超えて、九月

          9月になった。字面を見ると、秋を想起してしまうが、依然として暑さは続いている。  私は今年も夏を超えたのだった。とはいっても、夏の方から去っていったのだけど。 先月は何をしただろうか、と考えれば、価値ある余暇を無為に過ごしてしまった気がしてくる。これがセネカの言うところの「生の蕩尽」かとつくづく思う。 しかし、九月になったことを理由に、改めて自分を見つめ直し、真に時間を有意義に使おうと覚悟するのなら、それは愚か者というやつだとすぐにわかる。 だって、それは先月でも同じ

          夏を超えて、九月

          先生という生徒の在り方

          今年の夏は西洋哲学史の講義を行った。 講義を行ったと言えば、聞こえはいいが、私主導の簡単な勉強会を終えたということである。 全部で8回ほど。各回2,3時間ほど私が時代に沿って話し、二週間ほどで古代から現代までを疾風の如く駆け抜けた。 実は毎年、毎季節、似たり寄ったりのことをしている。去年の夏は物理、特に力学を高校生相手に教える機会に恵まれた。オンラインでの開催にはなったが、大変優秀な高校生相手に話すことができたのは、私にとって貴重な機会であった。また、今年の春は微分積分や線

          先生という生徒の在り方

          自己紹介

          私がひどく肺腑を衝かれた小説の一部を以って自己紹介を始めたいと思う。みなも知っている梶井基次郎の『檸檬』である。終始圧えつける不吉な塊はどうやら私にも同様に存在するらしい。私は鬱屈とした人間である。 さて、自己紹介といっても、私のような凡庸な人間が書くべきことなど大してない。本来なら白紙で終わらせてしまえばいいが、折角なので自己理解を深めるという意味で筆を取ってみた。筆というのもあながち比喩ではない。たしかに、これはいま読者諸賢の眼前に提示される頃には電子データに変換され、

          自己紹介