文學的な眼鏡をかけて
書かれたものをよく読むものは,なぜか幻惑的に映る.
私はよく本を読む方々と関わる機会が多い.よく本を読むというのは,二重の意味で,頻度と熟読度合いを掛けている.本といっても千差万別で,専門書を読む人もいれば,小説を嗜む人もいる.読書家というのはどちらかというと,専門書をよく学術の人間というよりかは,在野で分野横断的に本を読む人のことを指す気がする.
その中でもとくに文學を口にする人がいる.ときには愛書家――ビブロフィリアと言っても差し支えないほどの人がいる.そういう人たちは,言葉に表しづらいが,どこか似ていると感じる.持っている本人の性格,思想,信念は相異なれど,根源的なところが似ていると感じる.
本を読む人は物事に言葉を与えるのが上手いのだと気づいた.
私たちの知覚,あるいは認知行為は言語に大きく依存している.
うまく言葉にいい表すと,物事に対して気持ちよく輪郭を与えることができる.その表面を私たちは言葉を通じて撫でる.触れ合って,それが刺々しい概念であったり,温かい概念であったりと感じる.
経験上,本を読む人は適切に物事に言葉を与える.光の当て方が絶妙なのだ.照らしすぎては色が飛んでしまう.照らさなければ,見つけられない。私たちの幸せは,日常に隠れている.それを見つけるのが上手い.言葉を上手に形作って,それを大切にすることができる.柔らかな言葉を使えば,親しみやすい.堅い言葉を使えば,緊張を齎すことができる.その加減はとても難しい.
もう少し,嫌な見方をすれば,使う言葉の分布が似ている.要するに文章を読む人たちの語彙や,その使い方が偏っている.それがどこから影響を受けたのかはわからない.けれども,どこかに寄っている.
私は文を書くとき,海外文學のように書いてしまうときと,日本文學のように書いてしまうときがある.前者の場合,英語の文をそのまま訳したような,どこか不自然さを感じる文章が出来上がる.そういったときはダメだダメだと思って,柔らかい文章に書き換える.
多くの人も実際この傾向があるんじゃないだろうか.摂取した文章の偏りによって,頭の中の言葉の分布に異方性が現れる.だからこそ,言葉を吐き出すときに偏って出てきてしまう.
逆に言えば,言語で捉えるという行為も,この偏った分布に依存するんだから,厄介だ.私の見るものも,そういった言葉に引っ張られる.身内ネタなんかもその一種だろう.
だからよく本を読む人は調和が取れているのだと思う.そして,そういった人に恵まれてきたことを嬉しく思う.
愛を込めて,4646
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