自己紹介
私がひどく肺腑を衝かれた小説の一部を以って自己紹介を始めたいと思う。みなも知っている梶井基次郎の『檸檬』である。終始圧えつける不吉な塊はどうやら私にも同様に存在するらしい。私は鬱屈とした人間である。
さて、自己紹介といっても、私のような凡庸な人間が書くべきことなど大してない。本来なら白紙で終わらせてしまえばいいが、折角なので自己理解を深めるという意味で筆を取ってみた。筆というのもあながち比喩ではない。たしかに、これはいま読者諸賢の眼前に提示される頃には電子データに変換され、スマートフォン、あるいはPCのディスプレイ上で爛々と輝いているだろう。しかし、実際にこの原稿を最初に書き上げたのは、歴史上の多くの作家がそうしてきたように原稿用紙の上である。さらに言えば、本文の草稿は、原稿用紙の上ではなく、何かに使うだろうと思って溜め込んだ裏紙の山の上で書き束ねれた。兎にも角にも、やや古い人間なのかもしれない。そして、内省的な人間である。
些細な話だが、私の信条として次のようなものがある。
19世紀を代表する偉大なる思想家の箴言である。当然、生き血を万年筆の水墨とせよ、という意味ではない。通説やそれを踏まえての私の拙い解釈の披露はここでは避ける。しかし、なんとなく言わんとしていることは多くの読者諸賢も常日頃からの知的活動を通じて感得しているのではないだろうか。
私は幸運なことにたくさんの本に囲まれて暮らしてきた。人より多く読んだと自負するに足る文書量は読んでいないが、紙面上での旅は確実に毎日新しい学びを齎してくれる。しかしながら、私の精神的世界が醸成されたとは言い難い。私は精神的に未熟なままである。その稚拙を取り払うためには、対話が必要である。
私が好きなものを挙げるとするなら、散歩、読書、食事である。読書は散歩を始めたきっかけは、逍遥学派という哲学の一派を知ってからだった。実際に歩いてみると、これがまた心地よい。特に涼しい夜風がふんわりと肌に当たるぐらいの季節はたまらない。日中、酷使された脳が歩く中で、霧が晴れ渡るようになる。また、散歩をするのは夜間が多いが、付き合ってくれる友人たちがいる。だれかと歩くと自分の内面を吐露することが往々にしてある。「実は…」という振りから始めた回数は数えきれない。このような自己開示は夜が良い。夜の帳が私とその人を隔絶された空間へと招待するからである。そして、その空間は先の振りから会話を始めやすい情調がある。このような夜の対話は私の精神を醸成するのに、本以上に役立ったように感じている。読書は言うまでもない。本を読む、それ即ち「その場での旅」であり、最もお手軽で安価な高級嗜好品だろう。食事についても、私は美味しいものを食べるのが単に好きなのではない。食事とは、共に生きようとする情念に訴えかけるきわめて原始的な時間の過ごし方である。お気づきかもしれないが、私は以上の三つを対話の原石として好んでいるのだ。私の蒙が啓かれることを暗に期待しているのである。
そういえば、表現の癖が強いと小学生の頃の教員に言われた覚えがある。昔は、この言葉に自分も無数の物語を紡ぐ偉大なる作家を目指せるのかもしれない、と胸をときめかせたものだ。いま考えると、小学生にしれみれば大人びた表現を用いていたのみであって、独創的な表現力や突飛な発想力が内在しているわけではなかった。したがって、私は徐々に自分の能力の限界を見るに堪えかねて、このような内的世界を形成したのかもしれない。
このような内的世界というのは、暗雲立ち込める暗がりのような世界である。と同時に、時折見せる光芒が美しく映える。私は自分が鬱屈としているというのは一側面ではあるが、時折他人から受ける精神的刺激――感動や知的快楽、あるいは恋慕や逸楽――が煌めくとき、その美しさの価値を高く札付けることができるのだ。
この言葉も好きである。私たちの人生が価値高いこと、崇高なることを判然と示している。時間の有限性は、私たちの人生を豊穣なるものにする。人生が無限であれば、少なくとも私のような凡夫は卑しくも虚無を孕んだ眼差しで人生を眺めることになるだろう。
ここまで書いてみてふと思ったが、私の好きな言葉だけを書き連ねた記事でも書いてみようか。
私にとっては少なくとも需要があるし、もし仮に私と似たような価値観を持つような人がいれば、その人のためにもなるだろう。
最後に、私が学問に真に興味を注ぐことになったきっかけとなる文章を敬愛する諸賢らに送る。
このような長い自己紹介の文章を読んでくださった方々は、きっと私のことを好いてくれる人だと思うほかない。
愛を込めて、4646
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