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夏を超えて、九月

9月になった。字面を見ると、秋を想起してしまうが、依然として暑さは続いている。 

私は今年も夏を超えたのだった。とはいっても、夏の方から去っていったのだけど。

先月は何をしただろうか、と考えれば、価値ある余暇を無為に過ごしてしまった気がしてくる。これがセネカの言うところの「生の蕩尽」かとつくづく思う。

しかし、九月になったことを理由に、改めて自分を見つめ直し、真に時間を有意義に使おうと覚悟するのなら、それは愚か者というやつだとすぐにわかる。

だって、それは先月でも同じ議論が使えたはずだし、それはもっと前からも同じである。

ただ、もし強い後悔の念に苛まれるのなら、いますぐそんな考えは破棄したほうがいい。精神衛生上あまりよろしくない。鬱々としているより、あっけらかんとしていたほうがよい。しかしながら、自分がそうではないのが心苦しい。私も早くそうなりたい。そうでありたい。

さて、最近、時間が早く過ぎ去るような気がする。寝て起きて、ご飯を食べて、本を読んで、散歩をして、少し人に物を教えて。そんな生活の循環は、私の鬱屈とした内面を少しずつ濾過しているような気がしてくる。夏の暑さのおかげだったのだろうか。

たしかに、時間は早く過ぎ去っていくが、むしろ時間に対する感覚を日に日に研ぎ澄まされていくようだ。

この時間感覚は、友人たちとの約束を守るためのものではない。もっと壮大なもので、つまり、生きているという感覚である。生の強い実感が、鋭敏な時間感覚である。

以前、人は人生の終わりを意識すればするほど、時間の感覚は鋭くなるという文を読んだ。私は人生の終わりを既に予感しているのだろうか。老い先短いわけではないから、もう少し気分を楽にして生きていたいものだ。

8月、葉月、August。遠くに行ってしまった。また来年に再会しなくてはならない。待っていてね、来年まで。

久しぶり、9月。そして、あなたにもすぐにさようならを告げなくてはならない。

どうせ、またすぐ会えるけど、少しだけ寂しい。

愛を込めて、4646



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