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先生という生徒の在り方

今年の夏は西洋哲学史の講義を行った。
講義を行ったと言えば、聞こえはいいが、私主導の簡単な勉強会を終えたということである。
全部で8回ほど。各回2,3時間ほど私が時代に沿って話し、二週間ほどで古代から現代までを疾風の如く駆け抜けた。

実は毎年、毎季節、似たり寄ったりのことをしている。去年の夏は物理、特に力学を高校生相手に教える機会に恵まれた。オンラインでの開催にはなったが、大変優秀な高校生相手に話すことができたのは、私にとって貴重な機会であった。また、今年の春は微分積分や線形代数を題材にして、基礎的な数学を学部一年生に数か月に渡って教えて、また九月は文学理論を友人に教えることになっている。

さて、詳細は別の記事で述べるとして、終えてみての率直な感想を述べると、私が哲学史に精通していないこと、また話す技術に欠けることを再度自覚できた、という他ない。

毎回そうである。

一つ弁解しておきたいのは、私は前回、あるいは前々回から何も学びを得ていないわけではない。むしろ、単純な知識総量は増加しているし、相手を納得させるための弁論技術も飛躍的に成長しているはずだ。しかし、どうにも知識や技術が欠乏しているような気がしてならない。

私は教育、あるいは学習に関して、ある持論を持っている。

それは一回の授業で最も教室の中で成長するのは、「教師」である、ということだ。

今回も例にも漏れず、私が一番成長したと自身を持って言える。念入りな予習のために、哲学史や哲学概論のような本を3冊ほど読み直した。新しく買った本もある。例えば、淡野安太郎の『哲学思想史』は、表現がとても私好みで、たちまちにお気に入りの本となった。
話を戻そう。そもそも、講義や発表を想像してほしい。教室の中で、雄弁に自身の専門分野について熱く語る教師がいて、それをぼんやりと聞く生徒たちがいる。生徒たちの中には熱心に頷きを繰り返し、何やら蒙が啓けたような面持ちになる者もいる。だが、かなり珍しい類だろう。実際の場面では、受動的に説明を聞くに留まる人のほうが遥かに多い。
これはあくまで一般論で、今回の発表では、積極的な質問をいただいたし、また同様にこちらからも、いくつかの論点を持ち掛け、考え、想像することを強いた。しかし、それでも教室の中で最も思考し、試行したのは私である。

私にとって、発表とは『心地よい恐怖』で包まれた場である。いつ自分の無知が指摘されるかわからない。もし、一度指摘されれば、無知は無能の証左となり、何十もの蔑視が突き刺さるだろう。と同時に最高の知的快楽を味わうことができる機会でもある。この薄皮一枚隔てた恐怖と快楽のしかし、それは成長の場である。私が一番、成長の機会を享受しているのだ。

火事場の馬鹿力、という言葉がある。まさにその通りで、私のような人間は肌がひりつくような空間で、最も集中することができる。そして、自分を追い込むかのような恐怖の重圧が、真剣な学びへと誘う。

昨今、熱心に取り組まれてる主体的学習アクティブラーニングも、これを鑑みてだろう。論拠としてよく上げられるのが、ラーニングピラミッドの論は誤りであるとされているが、主観を以って言うのなら、あれは一定の度合いで成り立つと思う。あそこまで、学習定着がキッパリと区別されることはないと思うが、他人に教えることが一番学習を定着させるというのはそうだろう。

いままで私の発表や講義に貴重な時間を割いてくださったのは、友人や先輩や後輩であった。また、時には金銭を頂いた生徒を相手にしたわけだが、兎にも角にもしばしば、私は喋りがうまいと言われる。そして、中には、どうしても私の説明が聞きたいという者もいる。私の眼を通して、私の考えを乗せた説明を聞きたいらしい。

ここまで慕ってくれる人たちが身の回りにいるのはとても光栄なことである。しかし、私は彼らを真にカルチベートすることに導けているのだろうか。それは常に頭を抱えさせる難題である。自己紹介でも掲げた『正義と微笑』を再度、引用させてもらう。

勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記していることでなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、必ずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!

太宰治『正義と微笑』

さて、上から下へと知識が流れるのは、水が流れるのと同じように自然の摂理である。ただ、知識の流れは一つの指向性だけではなく、むしろそれぞれから四方八方に散乱する無数の流れだと思う。

そんな中で講義という体裁をとっては、聴講者が知的な訓練に埋没することを強いるのは難しい。聴講者の知識は格段に増えるだろう。なるべく伝わりやすい言葉を選んで、意義深いものにしようと苦慮したのだからそうであって欲しい。

一番講義や発表を通して、私が相手に望むのは、学問などに興味を持ってもらうことである。さらに言うなら好意を寄せてもらうことである。それが、一番賢くなれる早道であるからだ。

知之者不如好之者、好之者不如樂之者
(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず)

孔子『論語』

そして、一番楽しむものは教師である。少なくともそうべきである。したがって、本当に賢くなりたいのなら、わたしの立場に回れ。

本気で何かを学びたいなら、エゴイスティックに教え役に回れ。

知らなければ、誰よりも必死に学んで、それを練り上げぶつけよ。周囲を引き込み、そしてあなたを中心に知識の渦を作るのだ。

いつだって、挑戦するものには多大なる努力が要請され、そして多大なる成果が齎される。

愛を込めて、4646



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