カルティー二ビーチの海風
INDONESIA
Semarangから車で北東に約100km、時間にして2時間ほどで、いずれ小さな港町に突き当たる
町の名は、Jepara
高級家具に用いられるチーク材の世界的な産地であり、木彫りの伝統工芸が有名だが、それ以外には特に見るところもない、海辺の辺鄙な、そして小さな田舎町だ
この週末は眠れず、ふとベッドから起き上がり、金曜日の真夜中にオンラインで宿をおさえ、約1年ぶりにこの街で1泊することにした
先だって、東京本社の専務が急逝した
享年71歳
そのあまりに唐突な訃報は、まるで突然巨大地震が発生し、遠隔地にまで響き渡るような強烈な衝撃波となって、ここインドネシアにも到達した
その朝、出社してきた日本人CEOが顔を曇らせながらわたしのオフィスにやって来て、その訃報を伝えたのだ
その後、歩み去るCEOの背中を見つめながら、わたしはハイバックのチェアに浅く腰掛け、全荷重を背中に預け天井を見つめながらしばらく専務のことを想っていた
最後にお話したのは間違いない、今年の1月だ。それは電話だった
帰国休暇で福岡に帰省した際、会長宛てに福岡産の日本酒セット、そして本社の皆に福岡の銘菓を、一筆箋にしたためた礼状と共に郵送しておいたのだ
数日後、御礼の電話がかかってきたのが予期せず、その専務からだった
相手が相手で、こちらが恐縮してしまったが、温かく、そしてご丁寧なお電話だった
まさか、あの電話がー
まさか、最期に・・・
高速を飛ばしてJeparaに入り、カルティー二・ビーチに近い海沿いのバンガローにチェックインした
バンガロータイプの宿に泊まるのは初めてだったが、ここはとても居心地の良さそうな宿だった
全てが手に届くような、敷地全体の”狭さ”がいいのだ
チェックインカウンターのすぐ奥には洋風なダイニングルームになっていて、ハイスツールが並ぶカウンターの壁沿いには洋酒のボトルがずらりと並んでいる
天井では南国のビーチリゾートにはどこでもあるような巨大なファンが気だるげにゆっくりと回転し、すでにランチタイムを過ぎた店内には客の姿はまばらだった
みながラフな服装で、みながビンタンビールの小瓶を傾けている
そうした店内を、正面のビーチから心地よい風が吹きつけてくる
ジャワ海から生まれる、カルティー二ビーチの海風
温かい海風を浴びながらダイニングを抜けると中庭になっていて、芝生に並んだウッドテーブルやサンデッキで食事をとることも可能で、その中央には陽光を眩しく煌めかせる長方形の小さなプールが鎮座している
そのプールを正面に見据える部屋の扉を開け、手前のソファダイニングに一泊二日の荷物を放り投げてから、備え付けの冷蔵庫からビンタン・ビールを一本取り出し、タンクトップの上に白の長袖シャツ、サングラス、ベージュの短パン、黒のビーチサンダルに着替えて外に出る
生前の専務とはほとんど接点がなかった
無理もない。担当部門が違っていたし、ロケーションも東京とインドネシアと国が異なる距離があったし、何よりも立場が全く違ってもいた
いくつかの柔らかな思い出としては、以前会社がこの専務を中心に都内にフレンチレストランや料亭を展開し、専務がそれらのオーナーを務めていた経緯もあり、極めて〈食〉に鋭敏で、また、うるさい方だった
かなり以前に、一度日本橋の料亭での会食にご相伴させて頂いたが、その夜に食した、特にお刺身が口に合わなかったらしく、わたしに何度も〈ごめんなさいね〉と小声で小さく謝り、次の日のお昼までお店の文句を言われていたのだ(もちろん、わたしの粗雑な舌では十分美味しく感じられたのだが)
そして先日、専務が鬼籍に入られた後にCEOとふたりで会社で昼食を食べているときに、彼は呟くようにこういった
ー”専務はとにかくこっち(インドネシア)に来られた際は、週末を利用してよくJeparaに遊びにいっていたな・・・”
しかし、だからと言って、わたしが例えばこの地に専務を追慕、あるいは追走するために来たわけではない
そうした感傷癖は、わたしは持たないからだ
いや、いくばくかはあるのかも知れないが、それに対して酌み取るべきものはわたし自身のなかには一切、何もない
いわば、専務の唐突な逝去はあくまで、ここJeparaに来るための、小さなきっかけに過ぎなかったはずだ
わたしはこの地に、太陽の光を全身に浴びに来たのだ
そう、太陽で〈焼く〉ために・・・ここに・・・
しばらくビーチ周辺を散歩して、中庭にあるプールサイドの巨大なパラソルがついた木製のサンデッキに寝ころび、退屈しのぎに持ってきていた沢木耕太郎の紀行文を集めたハードカバーを広げる
サイドテーブルにはよく冷えた、ビンタン・ビール
プールからは大きな嬌声が聞こえてくる
欧米人の一家がはしゃぎながらプールに飛び込んで遊んでいる
サングラスをかけた大柄なパパはぷかぷかと浮き輪に揺られ、ママはプールサイドで読書
10歳くらいと思しき金髪で長身の女の子が、まだ幼い弟と手を繋いだまま嬌声をあげてプールに飛び込むことを繰り返しているのだ
聞こえてくる言語は、おそらくはドイツ語だろうか
ヨーロッパ圏のサマーホリディの季節はまだ早いはずだ
だとしたら、この一家もわたしと同じようにこの国に赴任して働いているのかもしれない
本を閉じ、そのような取り留めのない考えを弄んでいるうちに、次第に眠たくなってきた
目が覚めたのは、右足の強烈な熱さと痛みだった
サングラスを外すと、陽が急速に傾き始めている
眠っているあいだに太陽が沈みだし、パラソルの木陰にも南国の強烈な日差しが侵入し、刺されるようにして右足に浴びてしまい、日焼け止めのコーティングをものともせずにわたしの右足を焼いていたのだ
全身にじっとりと汗もかいている
悪い夢をみたはずだ
湿った長袖シャツを慌てて脱ぎ、サイドテーブルのビンタン・ビールを一口飲むも熱をもって生暖かくなっており、思わず乱暴にゴミ箱に投げ捨てる
それを目にとめた赤いアロハシャツを着た若い女性店員がわたしの元に駆け寄ってきて、”Sir?どうかなさいましたか?
”なんでもない”と半ば醜態を見られた恥ずかしさのように狼狽して答え、踵を返そうとした彼女の背中に、追加でビンタン・ビールと、氷入りのグラスを頼む
右足は赤く焼けている
もしかしたら軽度の火傷を負ってしまったのかもしれない
わたしはよろめきながら立ち上がり、プールサイドまでゆっくり歩き両足を水に浸す
気がつくと、すでにプールにはさっきまでいた欧米人の一家はいつの間にか消えていて、プールだけでなく、一帯にはひとりもいなかった
陽が落ちかかっている
ダイニングからは食事を楽しんでいるひとびとの嬌声が聞こえてくる
そのとき自分でも驚くほど気持ちが乱れていた
普段はここまで気持ちが乱れることはない
火傷をしたせいなのか
生半可な内面のちからでは制御できないような凶暴な怒りと強烈な哀しみが、目覚めたときから体内で渦を巻いていた
この地にはー
太陽の光を全身に浴びにきたのだ
そのためだけにー
<歳をとる>ことのひとつの定義、いや、見方といっていいひとつに
<周りのひとたちが死んでゆく>ことが挙げられるはずだ
〈歳をとる〉ことは、肉体の衰えだけでは決してない
それはそのままの意味で、自身が老いていくと共にもちろん周りのひとたちも老いていき、だから死んでゆくのだ
時間は容赦がない
この10年を想う
わたしの周りでも、まず祖父母が去っていき、ベトナム時代の日本人上司がベトナムで倒れてそのまま去り、同時期に懇意にさせて頂いた東京のお客様も唐突に去っていかれ、そしてわたしの最愛の父も、父が作り上げた家族に看取られ、安らかに去っていった
気がつけばわたしも40代に入り、無数の死者たちに囲まれるようになっていた
そして、やがてー
わたし自身も死者のひとりとなり、やがてこの世界から去っていくのだ
それは疑いようがない
だがそこに恐れはない
ないはずだ
時間は容赦がないということは、わたしたちの世代にもなれば皆等しく認識することができる聡明さを、いつのまにか身につけているものなのだ
どのように愚かな者でも
だからそこに恐れはない
ないはずだ
恐れるべきは、唐突にこの世を足早に去っていく者たちだ
かれらもまた、〈時間〉と同じで容赦がない
その者たちがわたしたちの心に低く、深く、そして鋭く穿いていったひとつの喪失の穴は、肉体的で、だから実際的な胸の痛みとなり、この痛みの円環からは、絶命するまで逃れることができない
〈助けることができなかった〉という、一方的に思える自責が、痛みを創出しつづけるからだ
恐れなさい
そうした無限の痛みを持つ者は、しかし、この世界にいったいどれだけの数がいるのだろう
数百万では利かないだろう。数千万、あるいは、もっとー
予期せぬ事故、予期せぬ犯罪の被害者、早逝者、夭折者
そして、あらかじめ定められていた運命のように自裁して去っていく一群の若い死者たちの群れ
恐れなさい
昨年の暮れに、わたしの人生のある一時期に、いわば狂熱ともいえる時代を共に有した女性の友人が、唐突にこの世を去っていった
異国の水の中で
まるでお互いもつれ合うように生きていた、もう決して戻ることのできない時代のー
だから、ここに来たのではなかったか
周りに増えていく死者たちを〈焼く〉ために、狂熱を共に有した友人をこの身で〈焼く〉ためだけに、ここに太陽の光を全身に浴びに来たのではなかったのか
だがわたしは、〈焼いて〉いったいどうするつもりでここに来たのだろう
無数の死者たちに囲まれていくということは、たぶんそれは、夜空で音もなく死滅していく星々のようなものなのかも知れない
あるいは、ここカルティー二ビーチの水族館で観てきた、無名の、名を持たぬ匿名の回遊魚たち
無数の星々、無数の魚たちは死期が来ると密かに、そしていつも秘密めいていて、仲間に別れも告げずにこの世界から静かに退場していくのだ
星も魚も、一切言葉を持たない
そう。そこでは一切、言葉は必要とされない
本来が、まるで無機物であったかのような静けさしかないのだ
急速に日が暮れかかっていた
生ぬるいプールの水に浸した右足は赤いまま痛みが引かない
身体の汗も引かず、気持ちは相変わらず乱れたままだ
さきほどの女性定員はまだビールと氷を持ってこない
全身を蝕むような激しい痛みと震えにひょっとして
わたしは、狂いかけているのではないか・・・
何も変わらないままに
やがてジャワ海に太陽は落ち
辺りは深い暗闇に包まれていった