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汎用性のあるものは強い個性を持っている

私の制作する着物や帯、その他染色品は、一見、個性的で使いにくい、他のものと合わせにくいのではないか?と思われることが多いようです。

なので「気になるけども、購入に踏み出せない」という方もいらっしゃいます。

しかし、ユーザになられた方々の多くは「これほど汎用性のある着物や帯は無い」とおっしゃって下さいます。

「個性的だけども、いろいろなものと合わせて引き立て合うもの」

というのは一見矛盾することですが、実際には「それが当たり前」なのです。

着物や帯は、基本的にそれ単体で使用されることはありません。

着物、帯、和装小物、その他のものと合わせて着用されますし、それを着て歩く環境にも着る人の精神は影響されますし、和装姿を観る人たちもいます。特に現代人が和装を身につけるということは、強く人の精神に影響を与え、かつ受けるわけです。

「いろいろなものが、着る人の周りで立体的に組み合わさり、増幅を起こしている状態」

が衣料をまとっている状態なわけですが、和装ではそれが強い。

そのようなものですから「それ単体では個性が強くなければならない」のが自然なのです。

もちろん全部の個性が表に立っているのはウルサイだけですから、底支えするタイプの個性も必要です。物事の成立には、いろいろな個性のモノが必要なわけです。

例えば「白ご飯」のようなものも必要なわけですが、しかし、日本の白ご飯は慣れているのであまり特殊に感じないだけで、初めて日本のお米の「密度が高く、粘りがあり、甘みが強く、香りがあまり無い個性」と出会ったら「なんだコレ?スゴイ個性的だな?」と思うでしょう。

「日本の白ご飯はこういうものだ」という基盤があるから、その個性を感じないだけなのです。

他のもので例えてみれば。。。

「調味料」で例えてみましょう。

「それ単体で使用されることは無い」のは、共通しています。

「しょうゆ」は、単体で観ればかなり強烈な個性を持っています。

とても塩辛い、大豆と麹の発酵の香りが強い、旨味が強い。。強烈な個性です。

日本のしょうゆは、日本人にとっては当たり前で、美味しそうな香り、という認識ですが、しょうゆに慣れていない人にとっては、その独特の発酵臭は「臭い」と感じる場合もあるそうです。

しかし、それが何かしらの食材と出会い、適切に使われることによって

「美味しい料理になる」わけです。

その場合、もし、調味料としてのしょうゆの個性が弱く、コップでごくごく飲んで美味しいものだったら、主題である食材を高めることは出来ません。

調味料のしょうゆは、個性が強烈だからこそ、いろいろなものを高め、またしょうゆ自体も美味しいと認識されるのです。

着物や帯で言えば、主素材は「着る人」です。

着る人を高めることが、着物や帯の役割です。

主食材と、調味料の関係に似ている気がします(笑)

ちょっと例えが身近過ぎてアレですが、しかし妙にしっくり来る例なので。。。

もちろん、高度に工芸的な着物や帯の場合は、単体で観て鑑賞に耐えるようなものを望まれますが、しょうゆそのものの性質を理解していれば「これは特に素晴らしいしょうゆだ!」と単体で品評も出来るわけです。

例えばオリーブオイルで、甘みやうまみが強い良質なものであっても、辛み、渋み、苦みが強いものも多いです。

しかし、それが主食材に合うように調理に使われれば、オリーブオイルの個性の強い部分で「その主食材の良い部分が引き出され、かつ欠点は抑えられる」となり「同時に、オリーブオイル自体も、主食材の影響によって美味しくなる」となります。

その「強い個性が必要」なわけですね。

で、そういう【使用上の文脈が公式化される】状態になると、その単体では個性が強いオリーブオイルも、それ単体で品評出来るようになるわけです。

例はいくらでもありますよね。

かように「強い個性と汎用性は相反するわけではない」となります。

もちろん、例外は存在します。

単体では美味しくなく、かつ相性の合うものは、ほぼ一つしかない。しかし、その組み合わは他に代えがたい美味しさがある、というようなもの。。。

コハダを酢〆して食べるようなケースですね。

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「モノは個性的でなければむしろ使いにくいのだ」

ということは上記のように事実なのですが、一般的に

「個性的なものは使いにくい」

なんとなく認識されています。

それは「個性的に観える使いにくいもの」が存在するからです。

実数はその方が多いですね。

ようするに、そういうものは一見個性的のように観えても、実際には数多ある平凡なもの、ということになります。それは本当の個性ではなく「個性の亜種」なのです。似ているけども違うものなのです。

例えば和装でいうなら、それは、実用の役に立ちませんし、実際に鑑賞的実用にもたいした効果がないものです。あるいは「使う場面が限定され過ぎる」ものです。

そのようなものを「孤高の個性だから合わせにくいのだ」と解釈している人もいますが、事実は違います。

例えば、和装であるなら、それは「ただ自分の好きな布をつくっただけであって、和装をつくったのではない」のです。

そのようなものは、実際に合わせられるものが非常に少なく、合わせられるものがあっても、その「個性的」なものばかりが目立って「取り合わせの増幅」が起こらず、他のモノのエネルギーを吸い取り減衰させてしまうのです。

そのようなものは「他者を排除・減衰させる内向きの個性」なのですね。

私は、そういうものは幼稚なものだと思っているので興味がありません。

例えば、コース料理があって、それぞれの料理を担当するシェフがいたとして、そのコースの途中に、全体の流れを無視した「個性的な」料理をつくるシェフがいたとしたら、それはその料理単体を味わえば美味しいとしても「コース料理としてはぶち壊し」なわけです。

そういうものは個性ではなく「いつもと同じ言いたいことを言っただけ」なのです。

それは個性ではなく「停滞」「堂々巡り」です。そこに個性はありません。

同じ個性的なものであっても

「他者を受け入れる懐があり、かつ他者を高める強烈な個性」

の場合は、

「外に向かった表現だからこそ、自然にその個性が表に引き出されて形になった」

のであって、だからこそ、思想的な限定の無い、強烈な個性が表出するわけです。

「そのようなものの場合は、その個性こそが、正に汎用性の理由となる」

わけです。


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