仁平 幸春|アーティスト
制作に関する考え、その他雑感を綴っております
写真や日常のお話など
自分の、あるいは社会の創作の話題で反応してしまったことの覚え書き
仁平幸春の和装や布に関する考えを綴ります。
仁平幸春の基本的な文化や創作への考え方です。
例えば、和装製品の産地の人が、作家としてデビューすると、早くて3年、それなりに才能のある人で7〜10年でネタが尽きてしまう事が殆ど・・・というのが私の観察結果です。 それを過ぎると、何か理由を付けて直接的な創作からは離れ、名誉職的な場所に収まるようになります。彼らは歴史の長い世襲の家の者である事が多いので、 元々産地の有力者家系の子息→作家活動→半分引退して名士として活動 ・・・のような流れに従い落ち着く事が多いです。 「枯渇」してからも創作を続ける場合は「盗用」が増
伝統的衣類である和装では、似た文様の着物や帯はいくらでもあるわけですが、特に古典文様のものだと良し悪しは明快になります。良いお手本が、伝統のなかにいくらでもあるからです 古典文様を描くのは、名曲を演奏するのに似ています。例えばバッハのチェロ無伴奏組曲を、非常に優れた演奏者が弾くのと、プロであってもそこそこ程度の人が弾くのでは、誰の耳にも雲泥の差があるように聴こえます。非常に優れた曲に同じように対峙する事で、それを演奏する人の力量が明瞭化してしまうからです 最近非常に問題だ
人間は、過去を元に新しいもの作り出す事しか出来ませんから、それはどうしても長い列車の最後の車両にもう一両追加するようなものになってしまいます。仮に全く新しいものを産み出せたとしても人間は全く新しいものは理解出来ない=存在しない事になってしまうからです。人間の精神が扱える範囲は意外に広くないのだと思います。 その長い列車も100年も経てば型遅れになり、もっと性能が良く安全で乗り心地の良い列車がそれに取って代わります。古い列車は博物的資料として保存される事でその当時問題とされて
オチも何もない、少し前に、変な夢を観た、というだけのお話です。 * * * * * * * * 仕事場で短時間昼寝をした時に、変な夢を観ました こんな夢です… 私はその時自宅にいて、何か作業をしていました。もう忘れてしまいましたが、何かするのにベランダに出てから室内に戻り、窓に取り付けてある換気扇が目に入った瞬間に急に視覚が止まってしまったのです…しかもなぜか横向きで… パソコンがフリーズしたかのように、視界がまるで写真のように動かなくなりました。顔を色々な方向へ
仕上げた絵よりも、その画家のスケッチ帳や、下描きなどに、その画家の飾らない、素直な描線が出ていて、しみじみ良いなあと思う事があります。 例えば、下は、東京国立博物館に出ていた狩野探幽の「草花写生図鑑 秋」です。 狩野派といえば、絢爛豪華でいかにも城の装飾に相応しい感じの画風ですが、探幽はその代表的な画家のひとりです。 そんな探幽のスケッチの描線は、繊細で洒脱で、草花を観察しつつキレイだな、カワイイな、と感じて描いている感じが素直に出ていて、とても良いのです。 (画像ク
民藝を把握するには、柳宗悦氏だけでなく、息子さんの工業デザイナー柳宗理氏の両者の業績の確認と、彼らが残した文章をしっかり読むと良いと思います 宗理氏の文章はとても上手く、かつ的を射ており(例えば「柳宗理 エッセイ」という本は必読です)父の宗悦が活躍していた時代からしばらくして問題化した事、民藝について宗悦自身は語りきれていない事、幼少期から知っている民藝運動界隈の主要作家の事などを息子が父とは違う視座から補完している感じです それと民藝論は、宗悦の初期の提言を経典としては
私は 「分野を問わず人々にトラウマを与える事で鑑賞者が作品に揺さぶられたと勘違いさせる意図を持つ作品」 を嫌います。 それは創作者がやってはいけない事だと考えます。 「作品の素晴らしさに精神が揺さぶられる」 のと、 「その作品に実際には必要の無い人の精神を傷つけるタイプの、直接的なエロ、グロ、暴力、死、個人の精神の歪み…などを作品を介して突きつけられた際に精神が揺さぶられる」 のは、 内容は全く違うにも関わらず、精神の反応だけ観れば似ています。 ようするに創
私のこのnoteで良く話題にしているネタですが… * * * * * * * * 以前、仕事場から家に帰ってテレビをつけ、適当にチャンネルを回していたら、フランス人の中年女性が京都の絞り染を体験したい、学びたいという事で職人さんたちのところを回って色々習っている様子を取材する番組があったので途中から眺めていました。 私が観ていた時には浸染職人さん(生地を染料に浸けて染める方法)が出ていて、この道50年以上とか?御年は75歳ぐらいだったかな? その方は、 「オレには
川村記念美術館が、東京に移転し規模を縮小して運営するか、美術館の運営を中止するか、そして保有する美術作品の見直しも検討する…という状況にあるというニュースが話題になりました。(2024年8月後半あたりに話題になりました) 川村記念美術館に限らず、どこの美術館や博物館も維持が大変なようで、クラウドファンディングに頼らざるを得なくなるところも増えました… 現代日本は、文化的に素晴らしいものを沢山持っているのに、それらを維持発展させる事に、あまり意欲が無いように感じられます。あ
成人式で振袖を着る事になって、その着用にあたっての煩雑さ苦しさなどで嫌な思いをし、それから着物を忌避するようになってしまった人は多いものです。 しかし話を聴くと、その嫌な思い出の半分からそれ以上は、人間関係での嫌な思い出であって、それが振袖というアイコンに集約されて語られているように思います。振袖自体が悪さをするわけではありませんからね。 例えば… 祖母が孫娘の振袖を買ってくれるという事になった。しかしそれは孫娘の望んだ事ではなかった、というケースは良くあります。 ・
日本語は、ニュアンスを伝えるためのオノマトペ(擬音語と擬態語)が豊富らしいですが、それは、ネット時代になり、日本でもの凄く沢山の絵文字や顔文字が発展したのと根は同じなんだろうなあ、と感じます 日本人は、言葉と言葉の間にあるニュアンスや言葉には出来ない微妙なニュアンスを伝える事に情熱を注ぐし、そうするのが好きなんですね 日本のようなハイコンテクストの環境だとそういう深化をするんですかね
現状「“伝統的”現代美術しぐさ」と言って良い、過剰にお作法に煩い系の現代美術作品は、同じくお作法に煩い伝統文化系のものに良く似ています。それらは文脈とか作品の背景とか美学の系譜とか色々あって成り立つ作品が多いわけですが、それが細か過ぎたり、そこに力点が行き過ぎると… お笑いでネタをかましてから「なんで面白いかっていうとぉ・・」とワザワザ説明しているような、あるいは予めネタの成り立ちを客席に説明しておいてからそのネタをやるみたいな感じになってしまって、その界隈の人たち以外は興
男着物は腹が出ている方が似合う、体型が緩んでいるぐらいの方が板につく、などと言って男着物を勧める人がありますが、私は個人的にその勧め方が嫌いです。 私は古の価値観に生きる男ですので 「男着物は気概で着る」 じゃなくてどうすると思うからです。 ちなみに、今話題にしているのは「男着物」限定の話であります。 実際、外国人の男性格闘家が男着物を着ると格好良いですよね。勝負で鍛え上げられた心身だからです。顔は日本人よりも濃く手足が長くても、普通の日本人よりも似合う。この事実
キモノの業界には、現代におけるキモノの存在意義の理論構築が殆どされておらず、ただ「日本の民族衣装だから日本人は皆着るべき」「伝統だからとにかく素晴らしいのだ」「伝統のスゴイ技術だから良いものなのだ」「職人がかわいそうだから守れ」みたいなノリなんですよね。 理論どころか、現状把握も出来ていない場合が多い。 それで念仏のように上記のような事を言っていても、説得力を持って世間に広まり浸透する事はありませんよね。 ・・・以前、外国のドキュメンタリー番組が結城紬の工房を取材した際
工芸系分野の個人の業界歴を良く「この道〇〇年」とか言いますが、しかし内情を観ると、例えば友禅染の世界で言いますと *友禅の先生の元で5年修行した後、工房を辞めた *自分で作品発表などしてみるが仕事が無く、他に収入のための仕事を持ったり、親族からの支援で友禅を細々と続けてはいるが実質的に仕事としては関わっていない。関係者のようなそうでないような曖昧な生活をだらだらと10年程する *その後、以前の知り合いと再会し、また友禅染をするようになったけども自分の作った作品を一年に数
カーネギーの本によると、疲れは退屈から来るらしいですね。 なるほど、確かにそうですね。 楽しい事をすると、脳に溜まった不良メモリーを開放出来て元気になります。そういう時の疲れは心地よい疲れであり、その疲れのお陰で良い睡眠が取れたりもします。 日常生活や仕事で「打てば響く」という状況だと楽しいから疲れにくいし新しい発想もどんどん湧いて来る事でしょう。 私の場合は元々「何かを楽しむ資質がない」のに加えて子供の頃から日常生活、勉学、仕事でうまく行った!と思える出来事のない人