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<書評>『物語の構造分析』

『物語の構造分析 Introduction a l’analyse structural des recits』 ロラン・バルト Roland Barthes著 花輪光訳 1979年 みすず書房

『物語の構造分析』

 ロラン・バルトが、1961年から1971年に行った各種評論をまとめたもの。原題を直訳すれば、「物語の構造分析についての紹介・入門」

 日本にフロイトの精神分析が入ってきたのは、第二次世界大戦後だと思う。そして、その精神分析をあらゆるものに適応することができると過信して、例えば小説にも適応して、夏目漱石の『坊ちゃん』などを「夏目漱石の精神分析的解読」等と称した本が、かつての血液型性格判断のように、流行したことがある。(なお、当初から識者が指摘していたが、血液型と性格を結びつける科学的根拠は皆無であり、また精神分析学的にも血液型と性格とを結びつける研究は皆無である。)

 また、フロイトが自らの精神分析を説明し理解しやすくするために、ギリシア神話のエピソードや登場人物を利用したとしても、それはフロイトがギリシア神話を精神分析したのではない。さらに、もともと神話というものは、ユングが述べるように、人類共通の遺産=集合的無意識を反映したものであるから、こうした精神分析の表現には使い勝手が良いものである。従って、神話の精神分析というよりも、神話から精神分析が作りだされたと見なせる。

 一方、人の性格は多岐にわたる上に、その人のおかれた状況や育った環境によって時間的にも空間的にも様々な異なる面を見せている。それを、何か特定の有限な概念で措定(決めつけ)しても、必ず把握できない部分が出てくるのが当然である。人の性格というのは、そんな簡単に把握できる対象ではない。しかし、小説の登場人物は、作者が意図的に性格を特定し誇張した形式で理解しやすく表現されているため(そうでなければ、小説が成立しない)、精神分析の対象にしやすいものである。ところが、現実の人間とはまったく一致しないいわばマネキンのような小説の登場人物を、いくら精神分析しても何ら新たな発見は出てこない。結局、作者が設定した性格を別の言葉で表現するだけだ(意味の同語反復)。まして、文学作品としての評価や鑑賞という面から見れば、登場人物の性格を別の言葉で表現するものではないため、そうした精神分析は何の役にも立たない。そして、文学評論であるとは言えないものになる。

 だから、本書の前半でバルトが試みている構造分析(文学評論)は、前述の精神分析と五十歩百歩ではないかと思うのだ。実際、バルトの「構造分析」という方法が一時は絶賛され、また世界中でもてはやされたが、いまやバルト自身が批評活動を止めているように、学問的価値に疑問を持たれているように思える。

 なお、本書の解説によれば、バルトは当初の構造分析からテクスト分析へと進化しており、いわゆる無味乾燥な記号だけに注目する評論から、文芸作品個々の味わいを評論する方向へ近づいたように見える。しかし、それでも基本的な「分析」という考え方は変わっていないため、私の理解している芸術鑑賞及び文芸鑑賞の仕方とは、ベクトルの方向が正反対であるように思う。

 そうして読み進めるうちに、本書にある「逸脱――ロラン・バルトとの対談」という章に行き着いた。これは、日本における歌舞伎・文楽・俳句などの異文化体験を記号学的に構造分析したものであるが、日本の西洋かぶれというか、なんでも西洋から注目されることを喜ぶ人たちがいるのだが、この章も、「日本」を対象にしたということで、「フランスの有名な学者が日本を取り上げてくれた!」と喜ぶ人がいるかも知れない。しかし、良く読めば、そのような内容にはなっていないことがすぐにわかる。その理由は、バルトの分析によって日本文化がずたずたにされてしまっているからだ。

 その一例を挙げたい。この箇所でバルト本人は、「バリ島の演劇に関するアルトーのテクスト、中国の演劇に関するブレヒトのテクスト、歌舞伎に関するエイゼンシュタインのテクストに結びつける・・・」(P.138)と自信満々だが、日本文化を表面的にしか理解していない証拠が、P.146の芭蕉の俳句に現れている。

<以下引用>
何と感嘆すべき人であろう
稲妻を見て
《「生」ははかない》と思わぬ人は!
(稲妻にさとらぬ人の尊さよ 芭蕉)

 私は俳句の専門家でもなんでもないが、俳句及び芭蕉の世界に影響している禅の世界を、多少とも理解しているつもりでいる。そして私が理解するこの句の意味は、上記に引用したものではない。これは、日本語の単語からフランス語へ直訳したものを、さらに日本語にしただけの無味乾燥な翻訳でしかない。

 私の理解する意味は、こんな感じだ。まず、芭蕉の句を俳句らしい形で表記したい。

 いなづまに さとらぬひとの 尊さよ

 稲妻が鳴った、光った。それを見て私は自然の大きさを感じた。稲妻という自然の偉大さを感じることは、禅の大悟に近づく道すじだ。しかし、近くにいるあの人は、稲妻の音や光を気にしていない。もしかすると当たり前のことと感じているのかも知れない。私のように稲妻に悟りへの道などと考えずに、稲妻が鳴ったこと、光ったことをそのまま受け入れて、泰然自若としている人の方が、いっそう禅の世界では良いことではないだろうか。

 つまり、フランス語の訳では、「生ははかない」と付け加えているが、それはそのまま「大悟」とはならない言葉だ。そして、「さとらぬ」と言う言葉を「(生ははかないと)思わぬ」と訳していることにも無理がある。「悟る=思う・考える」ではない。しかも、芭蕉はそうした人を「尊い」としたのは、「感嘆」という気持ちではない。自分よりも「大悟」の境地に近いのではないかという気持ち、つまり、自然の中にいる動植物のようにそのままの姿で何気なく存在していること、それを貴重である(尊い)と見たのである。

 以上の観点から、私なりに芭蕉の俳句を、フランス語から翻訳した日本語にしてみよう。

稲妻だ あの人は落ち着いている きっと悟る必要がないのだろう

 芭蕉の俳句には、構成された単語や文章を分析することからは、決して得られない概念とイメージがある。それはまた、作者の人格などを研究して得られる情報とも異なる。その作品に、またその言葉ひとつひとつに込められた、豊穣かつ多様な概念とイメージを、自らの持つ教養・知識を持って理解・鑑賞し、そうした全体を味わいつくすことで、初めて得られるものである。そのため、俳句を外国語に単純に文字情報から翻訳しても、その本当の味わいは伝わらないし、ましてそれを批評することには無理がある。

 つまり、俳句を含む日本文化とは、単純に構造分析される対象などではない。例えばエイゼンシュタインの歌舞伎に対する論考は、映画作法(モンタージュ理論)という観点から見た歌舞伎を述べただけであって、ヨーロッパ人から見た歌舞伎に対する総合的な文化研究となっていない上に、歌舞伎に関する論考の最良のものでもない。もっと言えば、映画監督が映画の観点から見た歌舞伎の話であり、それを歌舞伎に対する構造分析とはまったく言えない。もしもそれだけで、バルトが「歌舞伎を解釈した」と評するのであれば、それは大間違いであろう。

 同様に、バルトが、構造分析やテクスト分析によって、日本文化のみならず、世界の文化や芸術作品を理解・評価できるとしたら、それは、「誰それの絵は一億円したから素晴らしい、しかし別の人の絵は、値段がつかないから駄作だ」と言う如く、金額でしか芸術作品を評価しないことと同じ問題外のレベルになるだろう。・・・このようなことに、バルト自身が気づいたのではないか。それが、一時期世界中からもてはやされた後、晩年は沈黙してしまった理由なのではないかと思う。

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