yugenki1953

私は、長崎県の離島に住む、70歳になる、視覚障害者の男性マッサージ師です。 6歳で実家を離れ、盲学校とその寮で14年間暮らし、その後、広島で10年間、住み込みで働き、福岡と神戸でも自衛でやったり、お勤めをしながら修業し、44歳で地元に帰って来て、念願の治療院を開きました。

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私は、長崎県の離島に住む、70歳になる、視覚障害者の男性マッサージ師です。 6歳で実家を離れ、盲学校とその寮で14年間暮らし、その後、広島で10年間、住み込みで働き、福岡と神戸でも自衛でやったり、お勤めをしながら修業し、44歳で地元に帰って来て、念願の治療院を開きました。

マガジン

  • 私の生きた道

    生まれてきてからこれまでの私の生き方、人生をここに綴って行きたいとおもいます。 嬉しかった事、悲しかった事、悔しかったことなどをランダムに書いて行きたいと思います。 どうぞよろしくお願いします。

  • 雑記帳

     私が普段思っている事や感じたことなどを思いつくままに書いて行きたいとおもいますので、どうぞよろしくお願いします。

最近の記事

高校生時代は人体模型とにらめっこ‼️

私たちは高校生になると、鍼灸マッサージのお勉強も同時に始めます。  そこで登場するのが人体模型です。  全身の骨格標本やパーツの標本が沢山ありました。  また、筋肉や内臓の模型もありました。  また、高校の上の専攻科になると、鍼灸の本格的な座学も始まるので、ツボの勉強用の、経穴人形もありました。  今では更に進んで、ツボにセンサーの付いた機械を当てると、しっかり音声で説明してくれるようにもなっています。  そうやって私たちは、長い年月をかけていろんな知識を習得した上で、国家試

    • 私のお勉強事情(中学時代は百科事典三昧)

       私の通っていた盲学校は、やく3千坪の敷地がありました。  そこには、L字型の小学部校舎、大きな中高部本館、外来治療や専攻科の別館。 更には、寄宿舎や盲児福祉施設などがありました。  特に、小学部を卒業して、中学部になると、本館に入れたので、大人になったような気分にもなりました。  その中で私が一番興味を惹かれたのが、平凡社の中学生百科事典、全120巻でした。  これは、私たちの先輩たちが、大きな点字図書館かどこかから、その辞典を借りてきて、生徒たちが書き写す、一大プロジェク

      • 私のお勉強事情(小学算数編)

         上の写真は、私たちが使っている、視覚障害者用のそろばんです。  健常者用のそろばんとの大きな違いは、っ軸が縦ではなく、横に。通っている事です。  健常者用の玉は、軸の中を水平に滑りますが、私たちのそれは、軸が横に通っていて、球が前後に倒れて、触っても動きにくくしてあるのです。  私たちはこれで、加減乗除の計算をします。  私たちが習ってきたことの中に、割り算のくくと言うのがあります。  2しんのいん10と言うあれです。  今では使われないと思いますが、それを、小学3年生と4

        • 私のお勉強事情(小学校編)

           これは、私たちが使っている、携帯用の点字機です。  私たちは、お勉強をする前に、点字と言うものを憶えなければなりません。  まずは、点の位置を覚えるために、木の模型とビー玉で、その配置を憶えました。  そしてその次は、点字版と定規と点筆を使って、打つ事に進みました。  そして次はその打った文字を読む練習です。 展示は書くときは右から書き、読むときは、ひっくり返して左から読みます。 ちょうど、鏡に映したような感じですね。  とにかく、一年生の1学期は、点字を覚える事に費やされ

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        記事

          私のお勉強事情(幼少期編)

          私のお勉強、それは、ある夜の父と一緒に入った五右衛門風呂から始まりました。  風呂に入っていると、父が、水には、硬い水と柔らかい水があって、その中には、カルシウムやマグネシウムが入っているんだよと言いました。 それから私は、理科的な物に興味を持つようになっていました。  当時、ラジオでは、夕方に、科学クラブと言う番組が放送されていました。  その中で、なぜでしょうと言うコーナーが週に1回ありました。  それは、子供たちの質問に、専門家の先生が答えると言うものでした。  のちに

          私のお勉強事情(幼少期編)

          母泣き後の私

          母泣き後の私、それはもう、何かよくわからないぐちゃぐちゃになった私でした。  特に、母が他界した後の1週間は地獄でした。  このことについては、改めてこころを整理して書きたいとおもいます。  しばらくは、心の不安定感が残り、お仕事にも身が入らず、大変でした。  で、今は自分には大きすぎる家に、1人で暮らしています。  今、こうやって暮らしていますが、一つ感じる事があります。  それは、女性の力は偉大であると言う事です。  母は85歳まで生きました。  でも、その母は女性でした

          母泣き後の私

          母と暮らした12年間

           母と暮らした12年間、それは、抑圧からの解放でした。 私は、6歳から44歳まで、ほとんど家族と離れて暮らしておりました。  盲学校時代はまあ良いとして、その後の役24年間は、精神的にきつい24年間でした。  その問題のほとんどが、お金に関することでした。  広島では、働き始めて最初の年の11月に、その問題が起こりました。  まあ、それを皮切りにずっと悩まされて来たんですが、そのことについては、あとからしっかりと詳述します。  つまり、ずっとずっとそうやって、不自由な思いをさ

          母と暮らした12年間

          noteのエディターの不思議

          noteの不思議、それは、エディターの場所によって違います。  記事に対するコメントのところでは、サクサク文章が書けるのですが、作るタブにある、タイトルと本文のエディターでは、文字を入力しようとすると、真っ先に、テキストの最後と言う音声が出て来てしまいますし、トグル式に文字を打っても、うまく音声で返して貰えません。 なので今は、緊急避難的に、web版のnoteを使わせていただいております。  早急なアプリの改良をお願いします。 本日もお読みいただき、ありがとうございました。

          noteのエディターの不思議

          noteの作るをボイスオーバー完全対応でお願いします。。

           私は、noteを書くのに、iPhoneのボイスオーバーを使って書いています。  そして、AppleのMagic Keyboardを使って書いています。  普通のメモ帳などでは、普通にサクサク書けるのですが、noteのそれは、ちょっと難しいです。  キーボードを使って書いてみると、キーを一つ打つ度に、テキストの最後と言う音声が先に出てきます。  そして、ローマ字打ちでも、完全には読み上げが対応されていません。  例えば、かと打ちたくても、最初のkだけは読みますが、次のAを打っ

          noteの作るをボイスオーバー完全対応でお願いします。。

          作るのボイスオーバーをま改良してください。

          作るのテキスト入力エリアでの、ボイスオーバーの改良をお願いします。  いつも、noteを使わせていただいております。  ありがとうございます。  eyephoneのボイスオーバーを使っております。  そこで、作るのところで、タイトルを入力しようと、ソフトウエアーキーボードの文字を押すと、いきなり、テキストの最後と言う音声が出てきます。 本文入力エリアでも、同じ音声が真っ先に出てきます。 なので、noteの作るの画面でのテキスト入力はできません。 なので、この文章も、iPhon

          作るのボイスオーバーをま改良してください。

          Uターンした私

          Uターンした私、ああ、やっと解放されたなあと言う感じでした。  昭和35年の4月から、平成9年の10月まで、私は本土にいました。  最初の14年間は、長崎の盲学校、次の役10年間は、広島で住み込み従業員として勤務。  その次の1年9ヶ月は福岡で自衛とアルバイト。  そして次の役11年半は、神戸でお勤めをしてきました。  そして、平成9年の10がつ11日に、壱岐にUターンしてきました。  最初の3ヶ月は、長男の家、つまり実家に居候していました。  そして、っ翌年の初めから、今の

          Uターンした私

          男の座りション問題

           男の座りション問題、私はずっと悩み続けていました。  それも、昔の和式トイレの時からずっと思っていました。  なぜ、おしっこをすると、右方向に出てしまうのだろうか?  そしてそれは、様式になってから、更に悩む事になりました。  特に、洗浄便座、俗に言う、ウォシュレットを付けてから、悩みはもっと激しくなりました。  なんでいつも、ズボンの裾が濡れるのか?  なんで足元に水がたくさん溜まるのか?  ひょっとしたら、トイレが壊れているのではないか?  色々考えました。  そこでい

          男の座りション問題

          神戸時代の私

          神戸時代の私、これもまた、色々あり過ぎて、どこから書いて良いかわからないぐらいです。 福岡で泣く泣く治療院をたたんだ私、とりあえず、すぐ上のあにのところに世話になる事になりました。  そこには、内縁の義姉がいました。  広島で借金を作らされ、さらに福岡でも借金を背負ってしまった私。  もうどうすれば良いかわからなくなっていました。 お金の話については、別の項目でじっくりと語りたいと思います。 神戸についた私、早速就職活動をしました。  義姉の知り合いの人に頼んで探してもらいま

          神戸時代の私

          福岡時代の私

          福岡時代の私  福岡時代の私、それはもう、怒涛の1年9ヶ月でありました。  広島の治療院を退職した私は、いきなり福岡のアパートで一人暮らしをする事になってしまいました。  掃除や洗濯は、盲学校時代にそこそこやって」いましたが、炊事だけは全くできませんでした。 近くのスーパーで何かを買ってきては、訳のわからないものを作って食べていました。  他はほとんど外食でしたね。  お仕事、それはもう、悲惨でした。  とにかく毎日お客さんが無かったんです。  広告も織り込みチラシなどを作

          福岡時代の私

          広島時代の私        

           広島時代の私、それは社会人一年生のスタートでありました。  とは言っても、ものすごく狭い社会への船出であったのであります。  なぜ、ものすごく狭い社会かと言うと、まず私たちは、盲学校と言う所で、小学1年生から、最後の高等部専攻科2年の終わりまで、狭い三千坪の世界で過ごします。  学校も寄宿舎もすべて、一つの囲われた塀の中にあったのです。  そこを卒業すると、学校の先生の紹介で、視覚障害者の経営する治療院に、住み込みとして、就職するのです。  私はここで役10年、務めました。

          広島時代の私        

          高校生時代の私

           高校生時代の私、それはもう、激動の三年+2年でした。 まず、中学校とは違い、専門科目が入って来ます。  マッサージや鍼灸の勉強の基礎は、まずは解剖学です。  そして、あんま実技とマッサージの実技です。  特に、解剖学は毎日ありました。  そして、あんま実技とマッサージ実技は、交互に毎日ありました。  親指で揉むわけですから、それはもう手がしっかりと腫れましたよ。  我々はこれをしっかりと克服できないと、上手なマッサージ師にはなれません。とにかく、学年が上がるごとに、専門科目

          高校生時代の私