神戸時代の私
神戸時代の私、これもまた、色々あり過ぎて、どこから書いて良いかわからないぐらいです。
福岡で泣く泣く治療院をたたんだ私、とりあえず、すぐ上のあにのところに世話になる事になりました。
そこには、内縁の義姉がいました。
広島で借金を作らされ、さらに福岡でも借金を背負ってしまった私。
もうどうすれば良いかわからなくなっていました。
お金の話については、別の項目でじっくりと語りたいと思います。
神戸についた私、早速就職活動をしました。
義姉の知り合いの人に頼んで探してもらいましたが、すぐに見つかり、翌日には面接に行き、一発でOKをもらい、働き始めました。
そこは、6畳と四畳半の部屋が二つ繋がった、古い木造の家でした。
そこになんと、男性11人の視覚障害者のマッサージ師がいました。
もう、満員の時には、足の踏み場もありませんでした。
むろん、電気治療器なども一歳ありませんでした。
でも、日曜日ともなれば、お客さんでいっぱいになるところでした。
私はもう一度ここで修行をし直す事になったのでした。
その事件は突如起こりました。
ああ、あんたか!
あんたやったら揉んでいらんけん、次の人に回して!
え?そんなこともあるんだ。
つまり、印象が悪かったら、容赦なしに断られるのです。
そのときは、むかっときましたが、ん?待てよ?
そう言うことか。
よし、それならもっと練習して、必ずこの人を唸らせてやる!!
そう思い、色々と技術の改良に取り組みました。
時々、親方をマッサージする機会もあるのですが、その時に言われた言葉が、あんたのマッサージは、ツボには当たるけど、すぐに逃げるよね。
そう言われました。
そこで私は、さらに技術の改良を進めました。
おかげさまで、最後の方では、どんどん指名をもらえるようにもなりました。
と言うわけで、どんどんと最後になるほど、お仕事をたくさんいただけるようになりました。
と言うわけで、ここで役11年半、勤めました。
なんと言っても、この神戸の治療院は、私にとっての最高に良い職場であったと思います。
と言う事で、私はここに役11年半、勤めました。
ここは、長崎の盲学校出身者は1人もいませんでした。
ここで最後に嬉しかった事がありました。
なんと、有志の人たちが私の送別会をしてくれた事。
そして、職場の親方も、職場で送別会をしてくださったのでした。
普通、1人の従業員の送別会はしないよと、同僚が言ってました。
と言う事で、神戸での思い出について、書いてみました。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。
また、よろしくお願いします。