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自筆短編 「淵をみた人」

淵をみた人(ふちをみたひと)

盆の夕べ。テラスに置いた藤椅子に腰掛けて夕日を眺めておりますと、トカトカと床板を踏む音が聞こえて、孫が駆けてきました。

「おじいちゃま。何をなさっているの?」

殊に夕日が綺麗な日でしたので、二人でぼんやりと空を眺めていると、

「おじいちゃま。何か面白いお話しを聞かせてくださらない?」

「そうさな。では、おじいちゃまがとっておきのお話しをしてやろう。こちらに掛けなさい」

私はこの度定年を迎え、長年暮らした豪徳寺の自宅を売り払い、鎌倉の坂ノ下に移住をして参りました。まこと平凡ではありますが、幸せな毎日を送っております。

こういったのんびりとした生活を、日々を過ごしておりますと、昔の出来事を思い出す事がしばしばあるものでして、

振り返るとひとつだけ、不思議な、現実離れをした体験が思い出されるのです。

いえ、これは体験とは言えない事かもしれません。

其れは、私が二十歳の時に車の事故を起こしてしまって、意識を失い、病院で眼を覚ますまでにみた。何か夢とは言い難い、なんとも不思議な時間でありました。

霧の覆う世界の中で、それを両手で払うように一歩一歩進んでいく。

背丈程のレンガと花壇に隔てられた細い道、

私は吸い込まれる様にその道に入ってゆくのでした。

手探りに雲の様な霧を払い進んで参りますと、どうやら私の体は小さくなっておりまして、両側のレンガやら花壇やらが一層高く聳えてみえるのです。

ひとつ突き当たり。

「幸福」

どこかからか囁き声が聞こえるのです。それは母性を思わせる声でございました。
不思議と軽快な足取りで、好奇心に駆られて別の道を歩いてゆきます。

ふたつ突き当たり。

「希望」

同じ声がしました。辺りの花壇が少しずつ低くなっていく様な気がしまして、
気分が高揚して、怖いものなど無いと思える程に力を得た気持ちになりました。

みっつ突き当たり。

「絶望」

意気揚々と進んできたのですが、強い倦怠感が身体に纏わりつき始め、一歩前に足を進める事さえ辛く感じまして、心なしか視界も悪くなっていましたが、周りの花壇と私の背丈が同じくらいになっておりました。

よっつ突き当たり。

「再生」

精神が安定してきた心地良さを感じ、一度大きく息を吸い込み。ここを抜けていける自信が湧いてくるのでした。
落ち着いて、確かな足取りで歩いてゆきました。

いつつ突き当たり。

「過去」

なぜだか目頭に熱いものを捉え、足腰が不安定になって、歩く歩幅が狭くなりました。
少しずつ、少しずつ彷徨い、眼前に微かな光がみえてきました。

そして、やっとの思いで出口に辿り着くと、段々と辺りが見渡せる様になってくるのでした。

さて、霧が全て晴れると、そこは木々が周囲に生い茂り、そして青々とした空と、美しい緩やかな芝生の景色でございました。
私はそんな景色の中の、ある池のほとりに立っておりました。

その時また先ほどからの声色で、
今度は私を呼んでいる様で、

「あなた。あなた」

その声は段々と大きくなり、それに連れて節々が痛くなり、又、頭が締め付けられる様で、至るに全身が刃物で切りつけられていく程の激痛となってゆきました。

「あなた。あなた」

私はとうとう耐えきれず寝転んで、そこいらじゅうをのたうち回る始末となりました。

そして、目を覚ましたところ。
私は病室のベッドにおりました。

「あなた。あの時のお話しをなさっていらしったの?」妻が後ろから声をかけてきましたので、
私は恍惚としたまま返事を返しました。
「ああ、懐かしいだろう。あれからもう四十年になるんだな」

死の淵を彷徨う時、人は走馬灯というものをみると申しますが、そうだとしましても、私の其れは随分と手の込んだものにございました。

少しうとうとしている孫を膝に抱え、
空に眼を向き直しますと、
もうじき夕日は落ちる時刻となっておりました。

私は、隣に立つ妻の指を少し、そっと握り。
とても小さな声となりましたが、
こう、伝える事が叶いました。

「あの時はありがとう」

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