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古事記が語る瀬戸内海の島生み

桃太郎はなぜ桃から生まれたでしょう。お腰につけた黍団子、いつのまにか「きび」が「吉備」になっていますが、切り取る前の吉備をお腰に付けてるはずがない。占領した後に、領地を家来に分け与えたと解釈するが、鬼ヶ島を岡山にしたい人の奇弁にしか聞こえない。

岡山が吉備になったのは、吉備津彦が岡山を成敗してから、吉備は元々和歌山。吉備津彦を桃太郎のモデルとしているが、本当の桃太郎は吉備津彦の異母兄弟、弟の稚武彦。二人のかかさんは姉妹、二人とも第七代孝霊天皇の夫人。稚武彦も同じきびだんごを持ってるし、家来も同じです。

鬼ヶ島は高松からフェリーに乗ればわずか20分で行ける。鬼ヶ島が山城は可笑しい、女木島には鬼ヶ島大洞窟があり、女木島の桃太郎は稚武彦。古事記では若日子建吉備津日子だ。第九代開化天皇の和風諡号は、若倭根子日子大毘毘命。阿波が倭、奈良が大倭になるが、若倭は紀伊のことになる。若倭は和歌山都、稚武彦は和歌岳があったから命名された。

紀伊は事代主が国譲りで逃げて、紀国に伊国を作りました。国津神の首都が阿波の橘から、和歌山に移ったのは秘中の秘。吉備を岡山に移し、国津神を屠ったのが吉備氏の乱の真相。伊国は伊予之二名島の伊、四国東部の阿波と讃岐になります。吉備津の「き」は紀国の木、眉山は徳島市のシンボルですが、木の国にも眉山があって、その麓に港があれば木眉津です。

後に四道将軍となる吉備津彦は、日本書紀の別名であり、古事記の別名は大吉備津彦、本名は比古伊佐勢理毘古です。四国から海を渡り、岡山を征服したと国生みは語るが、前話「国生みは天照と素戔嗚の誓約に符号する」に戻って、国生みが魏志倭人伝の道程を遡るについて捕捉説明します。

狗邪韓国から始めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る。対馬は五男の熊野久須毘、大官が卑狗、副官が卑奴母離。また南に千余里海を渡り一大国、壱岐は四男の活津日子根。また千余里海を渡り末廬国、隠伎之三子島は宗像三女神、末廬国には宗像大社が鎮座する。

ここから九州北部を横断、東南五百里で伊都国、後に景行天皇が上書きした京都郡。景行天皇が熊襲討伐した際に、行宮を設置したとされるが、地名の書換は日常茶飯事、神功皇后の三韓征伐同様に創作。伊都は伊国の都として魏使を歓待し四国への道をぼかす。官が爾支にて、副官が泄謨觚、柄渠觚とも言った。

伊都国より百里で奴国、官が兕馬觚、副官が卑奴母離。漢委奴国王印、委は伊国、奴国は倭国の極南界、長国。魏志倭人伝に記載される奴国は全て長国が制圧した。奴国より東へ百里で不弥国、官が多模、副官がまた卑奴母離。卑奴母離の卑は卑弥呼の卑と同じで、尊称の日でしょう。

母離は後の防人に通じる守。防人は白村江の戦いの後に、唐の侵攻に備えて九州沿岸の防衛のために設置されました。岡山の鬼ヶ島と言われる鬼ノ城も、この時築かれたでしょう。尊称の日を省略すると、卑奴母離は長守、長国の守りです。制圧した諸国に睨みを利かすため、狗奴国から派遣されます。

狗奴国は制圧した奴国と区別した、伊国極南界の御長国。狗は中国語では犬、発音は「ゴウ」、なぜ「ク」か不思議だ。御長国は邪馬台国連合国、男王が卑弥弓呼なのがその証拠。卑弥呼は日彌王、呼の発音は「ウォ」、卑弥弓呼は日彌弓王。日が尊称なら彌も尊称、現代語訳なら御大王に御大武王。女王卑弥呼が祭祀担当に対して、弓が示す通り武力担当です、

不弥国は宇佐、宇佐神宮の真ん中に宗像三女神が祀られる。宗像三女神は、アマテラスとスサノオの誓約では三つ子、三男の天津日子根が九州、奴国の港として名を残す中津、長男の天忍穂耳と次男の天之菩卑が、四国に祀られるなら、中津が天津だろう。中津日子根を天津日子根に書き換えた。中津と名を残すのは、ここから四国へ水行したと読み解く。魏使を九州より先に進めない、水行十日、陸行一月、七万戸、攻められないよう道順を誤魔化し大国だと偽った。

四国も九州も四つの面に、四つの名があると古事記は記す。面は海岸線にて、隠伎之三子島は分ける程の海岸線はない。しかし天之忍許呂別の別名があり、伊伎島は天比登都柱、津島には天之狭手依比売、秋津島は天御虚空豊秋津根別。ちなみに淡道之穂之狭別島と佐度島には別名はない。

九州の四つの顔と同様、その地を治めた部族に由来する。高御産巣日神の娘として、天忍穂耳と結婚し瓊瓊杵を生む、古事記では万幡豊秋津師比売。奈良を治めるのは台与の子孫、日本書紀では栲幡千千姫と改名するのは台与を隠すため。天目一箇は古事記に登場せず、日本書紀に登場する鍛冶の神、ととさんが天津日子根だが、伊伎島の天比登都柱の変名か。隠伎之三子島の別名、天之忍許呂別は天忍穂耳の子孫だろう。

津島の天之狭手依比売、淡道之穂之狭別島、狭穂姫伝説。狭穂姫は垂仁天皇皇后、本牟智和気命を生むが焼死する。応神天皇の和風諡号は品陀和氣命、ホムツとホムダは別名だ。狭穂姫も日本書紀の表記、古事記では沙本毘売と記される。沙本が洲本市になった、洲は「しま」とも読み、島の意味。洲本が日本州の大元、国生み最初の子の名にふさわしい。

淡路島沿いに水行すれば、船中泊せずに紀伊へ渡れる。島生み1番目の吉備児島は、紀淡海峡に浮かぶ友ヶ島。2番目の小豆島は、今でも表記が変わらない小豆島。3番目の大島も変わらない、来島海峡は瀬戸内海の好ルート。対岸の大島を制圧すれば、四国沿いの水行を可能にする。4番目の女島が鬼ヶ島の女木島、5番目の知訶島は直島。最後の両児島は二つの児島、今は陸続きとなった児島半島。

4番目の女木島、5番目の直島、6番目の児島半島が、吉備津彦が四道将軍として、岡山を制圧したルートを表す。箸墓伝説に名を残す、吉備津彦と同母姉弟の倭迹迹日百襲姫。箸墓は日本書紀の創作にて、古事記では夜麻登登母母曽毘売。山はととさん「母はは」は疏、疏は疏水の疏、水路の意味。おじいさんは山へ芝刈りへ、おばあさんは川へ洗濯へ。母母と書いて「もも」、子どもはかかさんから生まれます。

#日本史がすき

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