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対自性について2
私は優れた文学者にも哲学者にもなれなかったが、考えるという事は続けている。最近は本もあまり読んでいないが、考えている事について少しだけ文章を書いておこう。
私は「対自性」という事を重視している。これは「自己と対峙する」という意味であり、この対峙は、自己と自己との葛藤として近現代人には現れる。
この対自性というのは、自己意識というものの複雑な形態、その本質であって、本来は誰にも存在するはずのものだが、今の大衆社会はこれを無に帰そうとしている。また、それ故にかえって私はこの事を重要視している。
対自性という人間の内部分裂を計算に入れるなら、人間というのは決して単一のものではない。つまりその頭の数を「一」と数えられるようなものではない。その内部においては分裂しており、その分裂の片方は無限の遥かな…要するに神とか、理想とか、天とかいったものと繋がっている。
また、個人の内部が分裂しているからといってこれを「二」と捉える事もできない。「一+一」のように捉える事もできない。それは、上方からメタな立ち位置に立って、その頭数を数えるという価値観それ自体を拒否するものだ。もう少し丁寧に言えば、そのメタな立ち位置を貫き、それよりも遥か上に突き抜けていく志向性を自らの中に持つという事だ。
ここまで書いた文章は哲学的過ぎてよくわからないという人もいるだろう。ただ、これは単純な事でもある。
例えば、あるキリスト教徒が牢獄に入れられて、その人間は全く孤独であり、世界と切断されていても、彼が自己の中の神を信じ、その存在と心の中で密かに対話している限り、彼は孤独ではない。彼は水平的な世界においては孤独だが、垂直的な精神の世界においては孤独ではない。彼は対自性を持っており、彼に対する存在は「神」と呼ばれている。
これと比して、自己と対自する事のない現代の大衆はどうだろうか。もちろん、大衆の中にも優れた人物はいるから、私が「大衆」と呼ぶのは抽象されたある存在だと考えて欲しい。
さて彼には友達がいて、恋人がいて、家族とも仲睦まじく、何ならインターネット上でたくさんのフォロワーに囲まれているのかもしれない。現代においては通常、こうした人を「孤独」とは呼ばない。しかし彼が対自的な存在を自らの中に抱えていないなら、彼は孤独だ、と私は思う。
この人物は横の関係においては孤独ではない。しかし、彼が自らの生の拠り所を探そうとすると、必然的に他者とのもたれ合いの形になる。ネット世界を見て欲しい。インフルエンサーやらフォロワーやらの関係は全てそのようなものになっている。孤独な人同士が寄り添い合って、それが美しい結合と考えられている。しかし孤独な人間がいくら集まろうが、孤独なままだと私は考える。
孤独の中に孤独ではない何かがある。それは、数によって数えられる何かを越えている。だがこれは余人に語り難いものだ。
人々が文学を嫌い科学を愛するのは、全てを「数」に還元したいからだ。彼らは、自己の分裂を統合して「一」にしようとする。彼らは孤独から逃げ出そうとしてより孤独になる。彼らは自らの中に巨大な空虚を抱えており、その空虚から逃げ出そうとして、より空虚な他人にもたれかかる。空虚で内容空疎なインフルエンサーがもてはやされるのはその為だ。こうした象徴的存在は、人々の空虚を拡大する為に存在しているかのようだ。
※
ただ、私が言っておかなければならないと思うのは、私の言う対自性とは、それ自体、自己意識という殻に閉じ込められているという事だ。
これは先程言った事と矛盾しているように思われるかもしれない。私が言いたいのは、近代から現代にかけて、対自性は自己意識という形態に結晶したので、それは「自己」という狭い中身に閉じ込められ、本来、開かれていた心の空間が閉じられてしまったという事だ。
開かれていた心の空間と私が呼ぶのはそれがかつては「神」とか「天」とかいった形で、外的な世界と繋がっていたという事だ。古代における理想は、心の内部が、世界の外側に開かれていた。そしてこの場合における「世界」とは私達が当たり前のように想像する物理的・空間的世界ではない。精神的な世界の事だ。
こうした対自性の在り方が、近現代においては自己意識という形に結晶し、非常に狭い脳髄の世界に限定されてしまった。日本近代文学の代表者の一人である小林秀雄の初期の文章の、晦渋で重苦しい表情は、本来志向されるべき外的な理想がその脳髄に閉じ込められた為に、作家は絶えず自己を反復していなければならなかったという事情を表しているーーとそのように考える事もできるだろう。
小林秀雄はこうした自己意識の問題に決着をつける事はなかった。この分裂に彼の精神、あるいは肉体は耐えられずに、彼は例えば「経験」のような一元論へと逃避していった。それは彼が青春を脱し、若き頃の「分裂」を逃れたとも言えるが、実際には自己意識の問題探索は途中で放棄されたとみなしたほうが正しいだろう。
西洋ではニーチェのような哲学者が頭に浮かぶ。ニーチェ哲学は、ショーペンハウアーのニヒリズムをひっくり返したものだと考えられる。すなわち、苦痛であり苦悩でもある生を肯定する事。永劫回帰の哲学がこれにあたる。
ニーチェはキリストを意識していたのだろう。キリストは、象徴的な物語であるわけだが、人類史上最大の苦痛を受けた人物だ。そしてキリストは「その苦痛を背負った故に」救済された。
ただ私が重視したいのは、キリストを救ったのはキリスト本人ではなく、神という「他者」だったという事だ。キリスト本人は、死の間際に神を呪う言葉を吐いている。これはキリストが人間でもあったという証左であるが、キリストがぎりぎり、自らの苦痛を克服できなかった事はキリストの恥ではない。
それは人間の極限・限界であり、それを救うのはその外部の存在、すなわち人を越えた存在としての「神」でしかありえない。ここに自己超克を理想とする東洋哲学との違いが見える。
ニーチェ本人は言ってみれば、神なきの、つまり他者を抜いた自己救済を目指していたわけだが、その結論として、彼は狂人になった。彼は妄想の世界で神となった。
これはそもそも、泥沼にはまりこんだ人間が、自分で自分の髪をひっぱりあげて自分を沼から救い出そうとするような、そんな無理な救済行動の結果を示していると私には思われる。どだい人間には無理な話である。
しかしニーチェの最大の魅力はそうした反骨心、不可能に挑戦する精神であり、ニーチェの晩年の痴呆に、キリストの復活と似たような「救済」を見る事も不可能ではない。
※
ここまで対自性という概念について語ってきたが、実際には、こうした哲学的理念は本来もっと色々な角度から論じなければならないだろう。ただ私は哲学者でもないので、そうする気はない。
現在において私が大切だと思うは、現代の世界は対自性というものを抹殺しようとしているという事だ。
ひろゆきの言う「それってあなたの感想ですよね」という言葉が流行したのがわかりやすい。世の中には自己と深く対話した「高級」な感想もあれば、単なる欲望の吐露としての「低級」な感想もある、という単純な事がもはやわからなくなっている。人の内部における深さや分裂には何の意味もない。一人の人間は「一」でしかない。だとすれば、この「一」を集めた「多数」こそが最も意義深い存在だ。それがこの社会の価値観だ。
こうして空虚な人々がイナゴのように群れ固まる社会ができあがっている。イーロン・マスクが偉いのは金という「数」を持っているから、有名インフルエンサーが素晴らしいのは「多数」のフォロワーを持つから等々。
こうした世界において対自性は抹殺されようとしている。しかし同時に、対自性というのは、古代のような、人間世界を越えた広い理想との癒着も禁止されてしまっている。近代において対自性は、少数の個人(大抵はエリート)の自己意識、内部分裂、葛藤というような形において現れたが、このドラマは既に終わっている。そしてこのドラマが終われば、もはや個人の葛藤には何の意味もない。
例えば、中国という国にはかつて「天」という物理的世界を越えた理想があって、「天」と現実世界との矛盾を個人としての詩人が背負う事により、偉大な詩作品が生まれた。しかし今や「天」は存在しないので、あるのは毛沢東とか習近平とかいった具体的で現実的な人間を絶対とする価値観だけだ。こうした価値観の内部では、矛盾や葛藤は存在し得ない。ただ権威に認められるか否かだけが問題となる。
私はこんな風にも考える。キリストが「人はパンのみによって生きるにあらず」といった時、そこには極めて明白な形での理想と現実の矛盾が表現されていた。というより、キリストは矛盾そのものを体現していたわけだ。
しかしキリストが信仰対象となり、キリスト教が国教となり、権威になると、矛盾や理想は消失する。パンと理想とが一致したものとなって現れる。というより、パンが世界となるのである。
こうした事は歴史においては繰り返されてきたわけだが、少数の個人は自己の内部分裂・矛盾を進化させ、世界との不整合を意図的に拡大してきた。世界との不整合を拡大する少数の天才が、彼らの死後に一般人に称揚されるのは、こうした不整合が、世界を更新する際にそのきっかけとして必要となるからである。こうした天才は、今ある世界を壊し、新たな世界を作り上げる際の先駆者であると、人々にはみなされるのだ。
※
長々と書いてきたが、私が言いたい事は特にはない。ただ、現代において対自性という言葉で、世界が消去しようとしているものを示唆しようとしている、というだけの事だ。
これは私が考えた概念とも言えるが、しかしこうして概念として捉える事それ自体が、私が言わんとする「対自性」をなくしてしまう事だとも言える。
なぜそうなるのかと言うと、私が言う概念を概念として捉えるのであれば、それはある概念として「一」として捉えられる、つまり単数形として捉えられてしまう。それによって私が言わんとする概念それ自体が誤解され、むしろ私が批判しようとしているものそれ自体に各々の心の中で曲解されてしまうのである。
そしてこの事こそが、実際に哲学をしてみる事と、自分の頭で考えてみる事と、哲学入門書を読んで哲学がわかった気になる事との違いである。
哲学をわかったようにさせてくれる本というのは、様々な哲学をそれぞれの概念に縮小し、それらを「説明」する。あたかもそれらは、個人を強くさせる武器や防具のようなものであるかのようだが、もちろん真の哲学はそんな風に「部品(パーツ)」ではない。それは自分自身に真に「体験」される他ないものだ。
なので私の言わんとしている事も結局はこの文章を読んでいるそれぞれの人間が自らの心の中で問いかけ、再現してもらう以外に理解してもらう方法はないだろう。そしてそれに関してはもはや私の言葉が及ぶ領域ではない。それは私が占有できるもではない。
それは「あなた」にしかわからない領域であり、私には決して届かない箇所である。しかしそれこそが、「私」と「あなた」の真の連帯を可能とするのだ。
この文章はこれで終わるが、私は「対自性」という概念が素晴らしいとか、意義深いとか言いたい気持ちもない。ただ困るのは、これが、私の孤独な内省に過ぎない、というどこかからか響いていくる小さな声を私自身が強く否定できないという事である。
本来、対自性はより大きな外的理想と結びつかなければならないものだが、私にはその為の方途というのは現状、全く見る事ができない。私はこの世界のどこにもその道筋を見つける事ができない。それ故に今はまだ、この言葉は「自己分裂」や「葛藤」といったものの延長線において語らざるを得ないものとなっている。