全てが無常なら、瞬間は永遠になるのか
ドストエフスキー『地下室の手記』にリーザという娼婦が出てくる。当時のロシアの娼婦というのは、今の「風俗嬢」とは全く違い、地位が低く、悲惨な人生の人たちだった。
リーザは、自分を買った客である主人公の男に、自慢をしたくて、ある手紙を見せる。それは彼女に思いを寄せる学生からのラブレターだ。
彼女が主人公に手紙を見せたがったのは、自分は今はこんな風に落ちぶれた身分だが、かつては決してそうではなかったと証明する為だ。彼女はかつては、きちんとした身分のきちんとした男性に恋を寄せられる存在で、自分は今は娼婦をして、社会の深淵に落ち込んでしまっているが、本当の自分は今の自分とは違う。
彼女は本当は立派な、一人の女性として扱われるきちんとした人間なのだ。リーザはそれを主人公に見せたくて、後生大事に取っておいたラブレターを取り出したのだ。
主人公はそれについて次のように述べている。
「あわれな女、彼女はこの学生の手紙を、まるで宝物のように、大事にしまっていたのである。そして、自分のような女でも真面目に真剣に愛してくれたり、慇懃な調子で話しかけたりする人もあるということを、わたしに知らさないうちは帰したくないと思って、この唯一の宝物を取りに、わざわざ駆け出して行ったのだ。疑いもなく、この手紙はなんの実も結ばずに、このままずっと手函の中にしまいこまれる運命をもっているに違いない。しかし、そんなことはどちらでも同じなのだ。彼女はこの手紙を自分の誇りとして、自分の身のあかしとして、一生涯たからもののように大事に保存することだろう。」
(「地下室の手記」米川訳)
ここでドストエフスキーが述べようとしている事は何だろうか。それは、どんな人間、社会の深淵に沈んでしまい、もう誰にもまともだと思われていない、そんな人間でも、その人間の底には密かな自尊心というものがあり、それがどれだけ愚かであろうとも、人はそうした自尊心に頼って生きている、という事だ。
人はそのように生きている。人というのは、(自分だけは違う、自分だけは特別だ)と思わざるを得ない生き物である。
私自身、現実に人と出会って話したり、あるいはドキュメンタリー番組を見たりしても、同じ事を感じる。世の中には信じられないくらい愚かな人間がいる。しかし、信じられないくらい愚かな人間は自分を「信じられないくらい愚か」だとは考えない。こうした人物は人には想像もできない特殊な方法で、密かに自分を特別な人間だと思い込んで生きている。
この世界においては、一番愚かな人間が自分を世界で一番賢いと信じる事はあるし、一番賢い人間が、自分をこの世界で一番愚かな人間だと悲観して、銃で頭をぶち抜いてみたり、宗教に入ったりする事も起こる。
人間とはそういう存在なわけだが、次からは、上記のドストエフスキーが描いたエピソードを自尊心とはやや違う角度から考えみたい。この文章で書こうとするのは自尊心の問題とは違うからだ。
※
リーザの人生を考えれば、娼婦として悲惨の人生を送る他なく、未来に全くの希望がない。「罪と罰」におけるソーニャは、リーザというキャラクターの延長線で作られている。
リーザは、過去に希望を置こうとしていて、ソーニャは未来に、しかも、現実ではない「未来」に希望を置こうとしている。現実ではない未来とは、宗教的彼岸の事、つまり現実の時が終わった後の「時」であって、黙示録的時間とでもいえばいいか。とにかく、現実に存在する時ではない。ソーニャは、聖書中でラザロが復活したように、彼女もいずれ復活すると信じているのである。
人間というのはどこかに希望を持ちたい存在である。しかし、その希望を「何処」に置くかは、一つの重要な問題だ。
私は思うのだが、この世の全てが、仏教が喝破したように「無常」であるのならば、一体人はどこに希望を置けばいいのだろうか。「無常」の概念を突き詰めていくと、現実のある瞬間に、我々は自らの拠り所、即ち、希望であったり、自尊心の源を置く事は不可能である。たとえ、そこに希望を置いたとしても、その「時」は常では無い、つまり流れ、変化してしまい、形を変えてしまうから。
ゲーテのファウストは「瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい」と心から言える時を世界の只中で探し求めていた。ファウストは、目が見えなくなっていた。目が見えないファウストは、彼の墓穴を掘る音を、新しい世界創造の音だと勘違いして、ついにこの言葉を吐く。「瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい」。
悪魔のメフィストフェレスは契約通り、ファウストの魂を奪おうとする。しかし、天上から天使がやってきて、メフィストフェレスを退散させ、ファウストの魂を昇天させる。…またしても宗教である。宗教的彼岸がここでは導入される。
ファウストの言葉、「瞬間よ、止まれ」という言葉はあまりにも象徴的だ。ファウストは時を止めたいのである。そしてそれはあくまでも「瞬間」である。
考えてもみれば、ファウストが盲目に陥る事によって、救済の感情を得るというのも象徴的な事柄だろう。ニーチェは梅毒が脳に回り、白痴になって、彼の超人思想を「完成」させた、とも言える。我々は人間である限り、変化する自己や世界に耐えず、対応せざるを得ない。我々には決して救いはない。
もしあるとすれば、世界の変化に対応しようとする能力、そうした能力が毀損した状態に、救済の幻影がやってくるだけだ。…しかし、それはあまりにも辛い事ではないか? そう考える事もできる。
※
「ファウスト」においては「止まった瞬間」が、天上の時間、つまり「永遠」とスムーズに接続される。私は、これは自然な事柄だと思う。
それはリーザが、過去の一点を自らの希望として生きているのと、そう異なった事柄ではない。人間は自分が現に存在しているのとは違うある一点を希望に置きたがる。そしてそれと自らが重なった時、彼はその瞬間を自らが神になったかのように感じるのだが、それは一瞬だけ訪れるもので、その瞬間はすぐに別の瞬間に取って代わられてしまう。
現実に我々は生きているが、その瞬間は刻々と入れ替わり、全ては常では無いので、全ては変化していく。そして全てが変化していくというその事実、「変化」という、変化していく現象それ自体に対する意味付けすらも、おそらくは未来のある時には変化してしまうだろう。そうなると、我々の認識機能は破綻してしまう。
私達は確実な何かを見つけたいのである。だが、現実は無常である。そこに矛盾がある。だから、ファウストのように、瞬間を永遠に繋げるという発想が生まれる。あるいはリーザのように、過去のある一点、ある刹那的な出来事が永遠に自己を意味づけている、という風に考えたがるわけだ。
※
私は芸術というもの自体が、世界の無常性に対する一種の抗弁であると思う。それは、世界の無常性に対して、ある美しい瞬間を一点にして静止させ、それを「永遠」に結びつけようとする試みなのだ。
だがこの思想は、現実が無常であると徹底的に体感されていなければならない。そうでなければ、芸術が現実を越えようとする事すら不可能である。現実の無常性に対する不可避の抗議として、芸術家は、世界のある瞬間を、あたかも琥珀に閉じ込められた古代の虫のように、閉じ込めて世界に開示するのだ。
…例えば、人が次のように言うのはある意味で正しい。
「芸術というのはただの形であり、色であり、言葉でしかない。要するにそれらは死んだ形式であって、生きて流動する現実に比べれば色褪せた、くだらないものでしかない。芸術家は現実に生きる事から逃げ出している。彼らは現実から逃避して、芸術とかいう個人的な趣味に逃げ込んでいるだけだ」
こうした、芸術を知らない人々の批判はある意味で正しい。ただ、こう言う人々は私には、現実というものを深く知らないだけとしか思われない。現実とは無常なのだ。それが真実なのだ。
だからどれだけ愛する人も、その心身は変化していくし、彼はやがて老い、骸骨になる。あるいは彼が永遠に変わらない肉体を手に入れたとしても、彼の心は変わっていく。そして変わらないものは死んでいるものであるが、実際の所、死んだものだって変化していく。灰だってそこにずっと留まっているわけではない。
人々が、死んだ芸術よりも生きた現実を、というのはそれなりに正しい。確かに、芸術とは死んだ瞬間、固定化された時に過ぎない。芸術はどうあがいても形式でしかない。
「モナリザ」をどれだけ眺めたところで、そこにあるのは油絵具の塊でしかない。これに比べれば生きた人間、生きた女性の方がどれだけ美しいか?…そこにはある種の真実がある。
だが、芸術家において事情は逆ではないかと私には思われる。芸術家は、芸術が形式でしかない事を知っている。どれだけそれが素晴らしかろうが、世界的に評価されようが、どうなろうが、そこにあるのは「絵具の塊」だったり、単なる「言葉」だったり、単なる「空気の振動」でしかない。
そんなものの背後に精神だの天上だのを見る方が気が狂っている。そう考えるのも間違いではない。しかし、現実というものが当に生きたものとしてあり、それは根底的に無常であり、決して留まるものではない事。それを知っているから、芸術家はかえって芸術の内部に世界を凝縮した「時」を見出そうとする。
文学においては、作品内部において人間の無常性が示される事が多いが、それは世界の無常性への一種の抗弁である。仏教的真理が、世界を「空」という無常の極限の概念で捉えたのと同様に、世界の無常性それ自体を一つの定常として作品内にとどめておく事、それによって世界の無常を乗り越えようとしているのだ。
ただ、こうした視点を採用すると、エンターテインメント作品もまた、現実の中のある時を固定化させようとしているとも考えられる。例えば、幸福なカップルのキスの瞬間、あるいは結婚式の瞬間、そうした固定化した幸福の時を作品のラストに採用する事によって、エンタメ作品もまた時を止めようとする。
確かにこの願望は、人が救済を求める感情と一致する。本質的にはこれは宗教や芸術とも根源的に繋がっている感情から現れている。
ただ、エンタメ作品においては、現実の無常性の把握が弱いために、現実のある状態に甘えたように、その瞬間に寄り掛かるという場合が多くなる。例えば、村上春樹の小説が、戦後の日本の経済的繁栄に基礎を置いているように。村上の小説が依拠しようとしているものは数十年が経って、もう既に崩れかかっている。それ故に、村上春樹が望んだ救済も既に過ぎ去ろうとしている。
偉大な文学と宗教が違うジャンルでありながら、それが境を介して接するのは、こうした瞬間があるからだ。こうした瞬間とは、救済をどこに置くかという事だ。
救済を現実内部に置いてしまうと、現実は無常である為に、それは欺瞞となる。この欺瞞の上にエンタメ作品は成り立っている。だから、救済は現実の外側に置かなければならない。
だが、救済を現実の外に置く事は、欺瞞ではなく嘘である。つまり、理性がその存在を探知できない超自然的なものだ。理性を基礎に置く芸術はしたがって、これを作品内部にそのまま持ち込む事はできない。
しかし、人間は現実を理性的に認識しつつも、救済を求める存在であるので、その精神は十全に満足されなければならない。それ故に、芸術は、あるいは文学は彼岸に対する祈りのようなものとなる。
それが「ファウスト」のラストの意味であり、「罪と罰」におけるソーニャの信仰の意味なのだろう(「罪と罰」のラストもそのように解釈可能だ)。私はそのように考えている。
私は芸術というのはそのように、世界の無常に対する一種の抗弁であると考えている。それ故に、芸術は「形」にこだわる。形は、形を形としか見ない人間には永遠に形でしかない。しかし、形の背後に奥行きのある世界が見えてくると、人は芸術の虜になる。
だが、そのような経験はある程度、現実の無常を感じた者だけが可能になるようなものだろう。現実に希望を見出し、現実に生きる自己というものを信じている人に、芸術がただの「形」にしか見えないのも、ある意味では仕方ない事ではある。というのは、そうした彼らにおいては現実はまだその無常性、その暴力性を全面的に開示していないからである。
しかしいずれは、そうした彼らにもそうした真実は襲いかかってくるだろう。そうなった時に、こうした人々は始めて、偏屈な画家が世界から目を背けて、自らの画布に向かい続けた、その意味を覚知するのである。というのは、そこには世界の無常性に対抗する瞬間の絶対化があるのであるから。