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北村紗衣は"批評家”ではない

 北村紗衣の批判の続編を書こうかと思ったが、年間読書人さんの「北村紗衣 『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』 : シェイクスピアの研究書ではない。」を読んで気持ちが変わった。
 
 というのは年間読書人さんの論考は「北村紗衣批判の決定版」と言ってもいいもので、権威主義者・北村紗衣のおそらくは一番の拠り所の「シェイクスピア研究者」という肩書の芯の部分を真っ向から否定しているからだ。
 
 もっと言えば、年間読書人さんの批判は、北村紗衣という人物にとってはあまりにも贅沢な批判と言える。そもそもまともに批評をやる気がなく、インフルエンサー的な活動をしている人間に対して、一定以上の知性の持ち主が真っ向から批判するというのは稀だろう。
 
 まともな知性の持ち主は、北村紗衣という人に関わるのを時間の無駄と考える。下手すれば訴えられたり、信者をけしかけられたりするので、ますます真っ当な人は北村紗衣に絡みたがらない。それが現状だろう。
 
 最初にあげた年間読書人さんの文章から、自分も特に同意した部分について引用してみよう。
 
 「(前略)それにしても「人の心の機微がわからない」のでは、「文学がわからないのは当然」ということになってしまうからで、それでは「文学の教授としては、致命的だろう」と、そう思ったのである。
 そして、当然のことながら、「文学がわからない人」の「シェイクスピア研究って何?」ということにもなるわけなのだが、その「謎」については、本書『楽しむ女性たち』を読むことで、ハッキリとした「解答」が得ることが出来たのである。」
 
 私も、北村紗衣が他人の心が全くわからない人だと知った時(どうしてこの人が文学なんてやっているんだろう?)と思ったし、同時に、北村紗衣が作品の内実については全く言及できず、まともな読み手からすればどうでもいい表面的な定義やら理屈やらをこね回している理由が了解できた。
 
 要するに北村紗衣には何もわからない。他人の心がわからないし、文学作品や映画作品のキャラクターの心の運動についてもわからない。

 だから本当はこういう人が文学やら映画に関わっている事自体が不幸な事であり、本来なら他のジャンルに行くべきだった。例えば人間の心情とは関係ない純粋な論理の世界、数学の世界だとか、そういうものに行くべきだった。しかし北村紗衣は不幸にも(文学や映画にとっても不幸にも)映画やシェイクスピアと関わりを持ってしまった。
 
 それで、まともな読み手は誰も認めないにも関わらず、半端な権威と素人受けを狙う、またフェミニズムというわかりやすい思想に乗っかってこれまた受けを狙う、半端なライターができあがってしまった。
 
 …ただ、こうした人物が文学研究者と認められるという事自体、もはや文学研究それ自体が、単なる予算の無駄になっているという事を残念ながら証明してしまっている。それがイギリスだろうが日本だろうが関係がない。アカデミズムの腐敗はこういうところまで来ている。
 
 この腐敗はしかしいつの時代にも現れたものだろう。シェイクスピアという存在を考えるなら、まずシェイクスピアを権威として崇めるという段階がある。これはシェイクスピアが受容されたあとにやってくる。
 
 一旦権威として崇められたものは、その本尊に割って入ってその本質を批判したり、批評したりする事は許されない。私はカント研究者がカントを真っ向から批判したのを見た事がない。しかしそれは「研究」という本質から考えれば当然だ。研究者は、自分の研究対象が権威として高い価値を持つのを望む。なにせそれで飯を食っているわけだから、カント研究者が知らずに、カント宣伝家になるのはやむを得ない。
 
 今言った事は吉本隆明的に言えば「文学研究者と文学者は似て非なるもの」という事になる。しかし全く文学とか芸術を知らない人々から似たようなものに見える。
 
 さて、年間読書人さんの文章に話を戻すなら、北村紗衣の「シェイクスピア研究」というのは、シェイクスピアがいかに受容されたのかというのをフェミニスト的視点から「研究」したものらしい。要するにシェイクスピアに対する真っ向からの研究ではないらしい。
 
 さて、北村紗衣は批評の本を出しているから、「批評家」と読んでもいいのかもしれないが、冷静に考えれば批評などといった高級なものよりも遥かに手前の場所にとどまっている。
 
 まず北村紗衣はそもそも文学がわからないし、映画を見てもわからない。私からすればアメリカン・ニューシネマの定義なんてどうだっていいし、そんな馬鹿げた事を他人と議論したくない。ネットで文章を書いて発表していると、この手の小才が批判してくるが、私は相手をしない。そうしたものの定義というのは曖昧であり、そもそもそんな事は作品の本質と関係がないからだ。
 
 それでは批評家から見られた作品の本質は何かと言えば、作品そのものから味わった深い感動である。作品と読者との関係を結ぶこの感動こそが批評の原点となる。
 
 「感動だって笑。そんな主観、お前一人でやっていればいいじゃないか笑」と言う人もいるかもしれない。そうした人は北村紗衣のような権威ある文章をありがたがって読むのがお似合いである。
 
 源氏物語を読んで感嘆し、シェイクスピアの芝居を楽しみ、西行の旅の風情をありがたがる人間もいるだろう。私ははじめこうした人達はその作品を理解しているものだと思っていたが、だんだんそうではないとわかった。ほとんどは趣味的な市民的享楽とでもいったもので、彼らは自らの魂を締め付けるような強い感動を経験していない。

 浅い理解の趣味的な人々は文学や映画や芸術から胸が締め付けられるような強い感動を味わった事はない。そして魂の所在を示すこうした感動は結局は少数の、世界から不幸を得たものだけが味わう不幸の中の幸福とでも言えるものだろう。
 
 こうした感動が批評の源泉となるわけだが、北村紗衣とその取り巻きにはそもそもここで言われている事が「何」であるのか理解できないだろうから、私は一つ、そうした文章を引用しておこう。以下は小林秀雄の「ゴッホの手紙」の序文からだ。
 
 「今でももちろんあると思うが、美術学校に彫刻家の参考室という部屋があり、ギリシアやルネッサンスの名作の見事な模造が並んでいる。僕は青年時代、気が滅入ってやり切れなくなると、よく其処へ出かけたものだ。あの驚くべき部屋が公開されているのを知る人は稀だったらしく、僕は其処でいつも独りであった。堂々たる巨像が、所狭しと乱立した、小汚いひっそりとした部屋には、いつも得体の知れない風が吹いているように思われた。」

 「僕は楽しかったのかそれとも辛かったのか、解らない。恐らく喜びも悲しみも、怒りも疑いも、青年期の一切の思いが嵐の中で湧き立っていたのだろう。僕は、ミケランジェロの《夜》の前に立ち、僕に似た幾多の憐れな青年の手に撫でられて黒光りのした石膏の下腹を撫で、いつかイタリイに行き、メディシの墓の前に立てる時があろうとも、現在の興奮はもはやあるまいと自分に誓うように呟いたものだ。」

 「彫刻の何たるかを始めて僕に教えてくれたのミケランジェロだ、そう言ったところで誰も信用してはくれまい。構わない。他人が信用してくれない言葉を、人は、やがて自分でも信用しなくなる。僕にはそちらの方が恐ろしい。」

 (「ゴッホの手紙 (序)」 小林秀雄)
 
 人は何故、ゴッホを論じるにあたって、ミケランジェロの話を小林が持ち出すのか理解できないだろ。何故これが「批評」なのか、さっぱりわからないだろう。しかし答えは逆で、こうした跳躍が批評として成立する為にはその基底において一体何が「ミケランジェロ」と「ゴッホ」の間で共有されているのか、それについて読者は考えなければならない。
 
 そしてそれがわかれば、小林の文章の跳躍も理解する事ができる。要するに、小林秀雄の優れた批評というのは全て小林の魂の感動が源泉となっているのだ。
 
 ※
 年間読書人さんの文章によれば、北村紗衣のシェイクスピア研究はシェイクスピアそのものを研究したわけではなく、シェイクスピアを受容する女性読者にまつわるものらしい。
 
 私はそんなつまらない本は読みたくはないが、年間読書人さんはわざわざ全てを読んで批判しているので、私としては感謝したい気持ちだが、それ以上に感謝すべきは北村紗衣本人だろう。素人向けのライトな本を書いてお茶を濁している大学教授の凡庸な研究書など、関係者以外は誰も読みたくないものだからだ。年間読書人さんは北村紗衣の研究書を次のように要約している。
 
 「実際、評者が「正直」であるならば、本書ついての「肯定的な書評」というのは、「シェイクスピアの聖典化に女性の果たした役割を明らかにしている」という「内容紹介」に終始するしかないだろう。」
 
 北村紗衣は他人の心がわからないし、文学がわからないし、映画もわからない。それでは、そんな人間が何故「シェイクスピア研究」ができたかと言うと、そもそもシェイクスピアそのものを研究していないからだ。シェイクスピアそのものの作品に関してはまともに触れず、その周辺の女性読者のシェイクスピアの受容度合いについて調べて書いた、そういう社会学的調査といったものがシェイクスピア研究の一部という事になっているわけだ。
 
 興味深いのは権威主義者の北村紗衣の研究対象の中心にシェイクスピアという「聖典(=権威)」があるという事だ。これは私には北村紗衣の精神構造を表すものだと思う。
 
 例えば、キリストを死刑に処したピラトが、その千年後、つまり似たような人物がキリストという権威を背に、また罪のない人間を死刑に処しているという事は十分考えられる。引用すると長くなるので書かないが、この問題はドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」の中の「大審問官」でその本質をはっきりと描いている。
 
 北村紗衣がまともにシェイクスピアを読んだら、まず間違いなくシェイクスピアにうんざりするに違いない。嫌いになるだろう。またフェミニスト的観点から、あるいは本人の好き嫌いの観点からシェイクスピアの「駄目」なところが無数に浮き出てくるだろう。しかしそういうものについて北村紗衣が言及しないのは、シェイクスピア作品の内容は必要ない(理解できない)が、「権威としてのシェイクスピア」は彼女には必要だからだ。
 
 例えば「オセロー」における、オセローの激情はどうだろうか。その激情が、人間としての悲劇を招くというその劇の構造が北村紗衣に理解できるはずもない。「オセロー」を女性差別的な作品として読むのは簡単だろうが。
 
 ただ、私が思うのは、他人の心がわからず、自分の心についてまるでわからなくても「感情」は存在するという事だ。私は北村紗衣がロボットだとは思っていない。
 
 北村紗衣が、自分を批判する人間に対して批判し返すのではなく、批判者そのものを抹消しようとするのは(記事の削除や訴訟)、北村紗衣が他人の心がわからないという事実と関係していると私は思う。
 
 北村にとって他人の心はわからず、自分の心とも対峙した事がない為、他人の自分への批判がある時、その「心情」がわからない。相手もまた自分と同じような人間だ、という実感がない。相手の立場に立ってみる事が全くできない。北村紗衣にとっては、自分を攻撃してくる相手は心のない怪物のような存在に見えているのではないか。
 
 北村紗衣が相手との議論ではなく、相手をねじ伏せ、信者をけしかけ、相手の書いた記事そのものを削除しようとするといった行為に出る時、相手は北村紗衣と同じ人間ではない。他人に心があるかどうかわからない。心がわからない人間にわかるのはただ表面的なものだけだ。批判者の心そのものを抹消しようとする事は、北村紗衣にとって罪悪感を呼ぶものではないのだろう。そもそも北村には他人の心がわからないからだ。
 
 批判してくる相手そのものを抹消しようとする行為は、北村紗衣にとっておそらくは生まれてこの方の不倶戴天の敵、「他人の心」というものを抹消しようとする行為なのではないか。
 
 北村紗衣の稚拙な権威自慢も私は北村の性格と関連があると思う。ちなみに北村紗衣の自慢とは下記のようなものだ。
 
 「なお、私は本職はシェイクスピア研究者ですが(とはいえ私はシェイクスピア映画について日本語と英語で査読論文を出していますし、この間もシェイクスピアと映画について学会発表したばかりなので、インフルエンサーではなく映画についての論文も書いている研究者です)(略)」
 
 「須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について」より
 
 英語で査読論文書いたからどうした?、と笑いたくもなるが、他人の心がわからない北村にとっては、人間の中身よりも、人間の胸につけられたバッヂの方が人を評価できる基準となるのだろう。そう考えると、北村紗衣の権威主義とは物悲しいものである。他人がわからないから、他人の衣服を他人だと思い込まないと、生きるのが苦しいのかもしれない。
 
 それにしても普通は、自分は社会に認められたとか、賞を取ったとか、金を稼いだとか、そういう事を思っていても、ここまで露骨な自慢はやらないものである。北村がこんな露骨な権威自慢をやって恥ずかしくないのは、そもそも「恥」という観念が彼女には縁薄いからだろう。
 
 (私は「恥ずかしい」とか「照れ」といった感情は重要なものだと考えている。照れというのは他者から見た自分の視点を必要とする。この視点がない人間は照れたりしない。こうした人間は終始真面目である)
 
 ※
 さて、北村紗衣という人物について書いてきたが、おそらくは私の文章は「あまりにも文学的」すぎるだろう。
 
 北村紗衣の文章を読んでいると、表面的な理屈や知識が散りばめられているだけで、内容がからっぽである。
 
 「なお、須藤さんのエントリで褒められている『カッコーの巣の上で』は、私はものすごく嫌いな映画です。嫌いな理由は性差別がひどいからで、詳しくはこちらを見て下さい。なお、この映画は公開当時は人種の描き方が革新的だったのだろうとは思いますが、今見るとアメリカ先住民の登場人物が白人の犠牲のせいで自分らしさを取り戻し…という展開じたいもちょっと微妙だと思います。」
 
 「須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について」より
 
 一つの映画作品を見て、「嫌いな理由は性差別がひどいからで」といった感想しか抱けないなら、何も見ない方がマシだろうと思う。しかしそもそもそういう観点しかないのだから、北村紗衣に多くを期待する方が間違っている。
 
 例えば、「性差別がひどい傑作」と「性差別がない駄作」の二つがあれば、どちらが歴史に残るだろうか。
 
 例えば、私は源氏物語という作品が「嫌い」だが、それはどっちかと言えば、北村紗衣に近い理由である。男尊女卑の世界観がひどすぎて、なおかつ光源氏はじめとする男性キャラクターが胸糞悪すぎて、腹が立つ。
 
 私にはどうしてフェミニストが源氏物語を攻撃しないのかわからないが、おそらくは作者が女性であるという事と、作品が日本の古典として有名だから、攻撃すると損だという感情が湧くのだろう。
 
 それでは源氏物語は作品としては無価値かと言うとそんな事はない。私は特に文学的価値が高いのは、宇治十帖だと思う。
 
 源氏物語は近代的な文学作品ではないので、作品そのものが三つの部分に分裂している。詳細は省くが私は最後の一部分だけは傑作の名に値するが、最初の部分に関してはひどいと思う(歴史的価値は除く)。
 
 ただそうした批評というのも、「一つの作品には一つの思想的潮流が流れている」という近代的な芸術観に沿ったものであって、芸術とか文学とかいう概念が存在する前にあのような作品をまとめ上げた紫式部の能力に関しては割り引いて評価しなければならない。文学という概念ができる前にあのような作品を書き上げたのはたしかに驚嘆に値するだろう。
 
 私が源氏物語の最後の部分に特に価値があると思うのは、作者の興味の焦点が、男性の華麗さから、女性の苦しみへと移っているからだ。男性貴族が中心の社会において、女性は犠牲になる役割を背負わされていた。はじめは、男性貴族を理想化する目的で光源氏のようなキャラクターを案出したのだろうが(私は風巻景次郎のこの意見に同意する)、後には女性が受ける苦しみへと作者は視点を移す。
 
 宇治十帖では男性は女性の影となっており、女性の苦しみが作品の大きな主題となっている。特に、ラストの浮船の自殺未遂のシーンには痛切なものがある。この箇所にはたしかに文学的価値がある。
 
 ラストで出てくる女性キャラクターの浮船は、二人の男に言い寄られて断る事ができず、両ばさみに苦しんだ挙げ句自殺しようとするが、横川の僧都に助けられる。後、浮船は出家する。
 
 浮船が表現しているのは、当時の閉塞した貴族社会が女性に強いた人間的な苦しみであり、この苦悩から逃れるには死しかないという諦念である。死ぬ事ができなかった浮船は出家する。出家は、女としての生を殺す事とも言いうるだろう。
 
 苦悩としての生から逃れる為に、死あるいは宗教を選ぶというのは普遍的な文学的テーマであって、私は最後の部分まできてようやく源氏物語の文学的価値を理解した。
 
 しかしこういう所は「フェミニズム」的な話でもなく、女性差別の問題でもない。女性差別の問題だけを取り扱うのはあまりにも浅すぎる(浅いが故に人々には大人気なのだ)。
 
 重要な事は、女性蔑視の貴族社会で女性が生きる事が、そもそも人間が生きる事そのものの苦悩を表しているという事だ。生きる事が苦悩であり、苦痛である事は誰にが感じる事であり、ショーペンハウアー的に言えば、人は欲望を持つからこそ、それが叶わぬ時に苦悩したり苦痛を感じたりする。
 
 女としての自己を殺す事が、男から求められる事への拒否となり、それは自身の救済へと繋がる。浮船は死のうとし、それが叶わぬなら出家する。人としての自己を殺す事により、他人の欲望から身を守ろうとする。しかしそれは同時に自身の欲望を殺す事でもある。
 
 しかしそれは人としての死ではないか、ニヒリズムではないのか?…そういう疑問あるかもしれない。それは、その通りであろう。しかし紫式部も年齢を重ね、おそらくは様々な人間の醜さを見て、感じ、最後にはそのような諦念へとたどり着いたのだろう。私はこうした観点から源氏物語を評価する。
 
 ※
 さて、長々と書いてきたが、この文章はこれで終わりにしよう。
 
 北村紗衣の書いた文章も、北村紗衣のしている事も、全く文学とは関係がないし、映画感想も薄っぺらくて、私は何も言いたい気が起きない。
 
 北村紗衣は須藤にわかという人とアメリカン・ニューシネマの定義について議論しているが、そういう形式的な学問的切り取りに関しては得意なのだろう。要するに、アメリカン・ニューシネマの個々の作品の内容について深く参与する事はできないが、そうした作品を形式的にどう配列するか、定義するかという事については「研究者」らしく得意なのだろう。
 
 そうした点で北村紗衣は長々と語っているが、個々の作品の深みには全く入っていかない。
 
 こういう形式的な知識や理屈だけ積み重ねて「批評」とするのは、素人を騙すには好都合だろう。それとに、ネットに沢山ある薄っぺらい感想の数々を読むと、こうした人々にとっては、大学教授で研究者の人物が自分達と同じように薄っぺらい感想を書いているというのは、共感しやすいだろう。
 
 総括してみよう。北村紗衣という人はそもそも他人の心がわからず、映画や小説を読んでもその内容や心理のうねり、人間の在り方に全く興味が持てない人であり、それ故に彼女の行う研究、あるいは彼女の文章は形式的で、薄っぺらく、表面的な知識の詰合せである。
 
 そんな他人の心がわからない人物が、他人や自分をその内容ではなく、外見や、わかりやすい権威やらで判断しようとするのは当然だ。例えば、北村紗衣にはシモーヌ・ヴェイユの次の言葉が全く理解できないだろう。
 
 「非常に美しい女は、鏡に自分の姿をうつして見て、それが自分であると当然信じ込むことだろう。みにくい女は、そんなのは自分ではないと心得ている。」
 (「重力と恩寵」ちくま学芸文庫)
 
 ここで言われいているのは、みにくい女は「自己否定が可能である」という事であり、その否定としての真空地帯に神が入り込んでくるというのがヴェーユの思想だが、ここで言われている事は通俗的な人物には全く理解できないだろう。というのはほとんどの人間は自分がーーそのまま"自分"であると信じているからである(おそらくはこの文章も意味がわからないだろう)。
 
 北村紗衣が、心を持つ他人を恐れて、その存在自体を削除しようとするのは、ある意味で当然だ。というのは他人は心を持っており、それは自分に理解できないブラックボックスであり、それが自分に攻撃的なのか、好意的なのかはわからない。相手と話し合うのではなく、相手の主張そのものを削除する事。それは北村紗衣にとって恐るべき他人の心を削除する為に必要な手段であるように私には思われる。
 
 しかし、私が興味深く感じるのは、文学や芸術は一切無縁な北村紗衣という一人の人間もやはり、その根底においては「文学的存在」だという事だ。というのは、文学を全く理解できないこうした人間も、作品内のキャラクターではあり得る。大抵は端役という事になろうが。
 
 こうした人物もまた一人の人間存在としてこの世を生きている、という事実は、客観的視点を欠いている当人には決して見えない姿だが、優れた作家の視点からすれば、こうした人物すらもやはりこの世に生息する一人の人間として人間らしく生きている。つまりその非人間的な様が、世界の一部にあっては人間としての一様態として人間的だという事だ。
 
 この文章はこれぐらいにするが、私には北村紗衣という人はそのような人物に見える。北村紗衣の、自分の信者を煽る戦略はそう遠くないうちに、否定される事になるだろう。他人に対する悪意は自分へとかえってくる。
 
 暴力を否定する人間の暴力を否定する様それ自体が、新たな暴力であるのはごく普通の事だ。北村紗衣がやっているのはそういう事だが、その稚拙な煽り方を見ていると、もう既に自分のしている事がわからなくなっているかもしれない。他人を刺す槍が自分を貫く事だってこの世にはあるだろう。その事実が北村紗衣にはわからないだろう。そして、わからない人間は、現に自らがそれを成す他ないのだろうと私には思われる。
 

 注1

 北村紗衣にファンネル攻撃されても困るので言っておくと、最後の「他人を刺す槍が~」という文章はあくまでも"比喩"であり、私が北村紗衣を槍で刺す、というような意味はありません。もしかすると"比喩"を理解できない可能性がありますので付け加えておきます。

 注2

 それとこの文章に関して言えば、「発達障害の人物に対する誹謗中傷だ!」という批判も出てきそうだ。それについても説明しておこう。

 私は発達障害について詳しくないが、北村紗衣のエッセイにある通り、発達障害と他人の心がわからない事象に関連があるとすると、発達障害の持ち主に文学作品や映画作品を理解するのは難しいだろう。なにせ、こうした作品はキャラクターの心理のうねりを辿っていく事が非常に重要だからだ。だからそれができない北村紗衣は極めて表面的な理屈でしか作品を読解できない。

 もちろん、他人の心を理解できないからといってその人が無価値であるとか駄目であるとかいう事はない。それぞれが自分の得意な分野で伸びていけばいいだけだ。

 問題は他人の心がわからず、小説も映画もまるでわからないにも関わらず、大学の研究者という名目でよくわかっていない素人に玄人のような顔をして、軽薄な理屈や知識を切り売りしているという事にある。もっともこれは北村紗衣個人の問題よりも、現代の文系アカデミズムの問題なのだろう。

 残念だが、今の大学の文学研究は文学玄人からも、また文学を理解できない人からも嫌気されるものになっている。それには相応の根拠があると思われる。



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