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自らの声として他者を聞く (フランク・ターナー・ホロン 「四月の痛み」)
図書館でこの本を手に取った時、私はすぐに(ああ、これは文学だ)と思った。そして著者が何が言いたいか、何を言わんとしているか、手に取るようにわかった気がした。
その後、私はこの本をアマゾンのほしいものリストに放り込んでおいた。新品はもう販売しておらず、売っているのは中古だけ。値段が高騰としていたので買う気にもなれなかった。安くなったタイミングで私は買った。今は値段は上がっている。
例えば、ある本を読んで、あるいはある音楽を聴いて(ああ、これは自分の事だ)と思う事はあるだろう。私はこの体験は誰にでもあると思っていた。しかし、年を重ねて、これは少数の人間にしか現れない事だとわかってきた。
世間一般の人間が実にくだらないどうでもいい事を四六時中追い回しているのはそういう経験がないからだが、それは見方を変えれば、彼らの叡智だと言う事もできる。誰しも自分自身と向き合うのは辛い事で、自分と対峙するのは自分という孤独の中に閉じこもる事を意味する。
人々が全く自己と関係のない事(例えば大谷翔平)を追いかけ回すのは、そうする事によって自分から逃れて、この退屈な人生の暇つぶしをしているという風にも考えられる。彼らは自分から逃れて、外へ行く。どこまでも行く。
※
「四月の痛み」はある老人の内省を描いた作品で、老人の独り言が続く。ほとんどエッセイのような内容でドラマはほとんど起こらない。
著者はこの作品を二十代で書いた。二十代の若者が何故老人を主人公にした作品を書いたか。それが不思議に思われたそうだ。
著者はこの問いに対して「理解したかったから」と答えている。しかしそれ以上、多くを語っていない。語る理由を語る事は、著者にはそれほど必要ない事だと思われたのだろう。実際、私もこの作品はこれだけで完結していると思う。
ずば抜けた傑作とは言えないかもしれないが、ある種の人はこの作品に込められた心のつぶやきをあたかも『自分自身』だという風に捉えるだろう。このような事は大抵は文学作品にだけ許される事なのだが、数量と物質に囚われた人々にはそれは余計事としか思えないに違いない。
この作品のはじめには次のような文章が載っている。
「これを読み、わたしが書いているときと同じように感じてくださった読者のみなさんに、この本を捧げます。」
私はこの文章を読んで(そうだろうな)と思う。そして(やっぱりこれは文学だ)と思う。しかしこの事は、どういう風に説明すればよいだろうか。
最近、私は年間読書人さんの批判に乗っかって、北村紗衣というフェミニストの文学研究者を批判している。しかし問題は北村紗衣一人にあるわけではない。北村紗衣が文学作品や映画作品を全く理解できない事、にも関わらず、作品そのものの外形や意味や定義のみを追いかけて作品を裁断する事、それを「研究」だの「批評」だのと言う世の風潮を私は批判している。
例えば、ホロンが書いているこのたった一行の文章をフェミニストはどう捉えるだろうか? 著者は男であり、執筆時は二十六才だった。作品の主人公は八十七歳の老人男性である。
フェミニストは、作者が女性ではないという事に目をつけるだろうか? 若者が老人の心を描こうとしたのが間違いだと言うだろうか? いや、もし公式的な情報、作者が男性だという事実が実は嘘で、作者が女性だという事が明らかになったら、フェミニストは作品への態度を変えるだろうか?
これはフェミニストに限らない。愛国的作品を書いたのが実は日本人ではなかったとしたら、愛国者はどんな反応をするだろうか? 熱烈なキリスト教徒が書いた作品だと知られているある作品、キリスト教の模範とされるような作品が実は異教徒によって書かれたとわかったら、その本を愛していたキリスト教徒はどんな反応をするだろうか?
これら全ての問いに、こうした人達は答えようとしないだろう。彼らは作者の属性に従って作品を裁断するだろう。作者が何者であるかという事実が作品の価値を決定する。作品に盛られた言葉は一言一句変わらないのに、ある種の人々にとっては、作者が「何者」であるかが問題なのだ。
それでは聞くが、ホロンが書いている「わたしが書いているときと同じように感じてくださった読者のみなさん」というのは一体誰だろうか? 私はそれを真剣に聞いてみたい。
それは女性だろうか? 男性だろうか? 若者だろうか? 老人だろうか? 共産党員だろうか? 自民党員だろうか? 日本人だろうか? フランス人だろうか? 誰だろうか?
私は、北村紗衣のような人間に真剣に聞いてみたい。「あなたは誰ですか?」と。北村紗衣はそれを自明だと思い、そう発言するだろう。北村紗衣は、自分は女性であり、年齢は〇〇であり、大学教授であり、世間に認められたシェイクスピア研究者だと言うだろう。
しかし、もしそうだとしたら、ホロンのこの文章は一体何を意味するだろう? 私が聞きたいのはそれだ。
「わたしが書いているときと同じように感じてくださった読者」は、女性として、男性として、大学教授として、若者として、老人として、こうした作品を感じているのだろうか? それではそもそも、この作品の作者が若者だったにも関わらず、老人に"なりすまして"書いたというその意味は果たしてなんだろうか?
…答えを言うなら、「文学」とは自分を抜け出す為の装置だという事だ。だからこそ、ホロンは
「これを読み、わたしが書いているときと同じように感じてくださった読者のみなさんに、この本を捧げます。」
と書いているのだろう。ここではホロンが何者であるかが問題になっているのではなく、読者の属性が問題となっているのでもない。
何を感じ、何を考え、どうこの作品の言葉を受け取ったか、というその主体が問われているのだ。問われているのはこの主体であり、この主体が文学作品を生み出したり、また、文学作品を読んだりするのだ。
「女性」や「男性」や「日本人」や「共産党員」がこうした作品を生み出すわけではない。その奥にある「人間の中の人間」、「真なる主体」としか言えないものーーそうしたものが、こうした優れた作品を生み出すのだ。またそうした主体だけが、こうした作品をあたかも自分自身の心のつぶやきのようにして読むのだ。
※
作品の内容に触れずに、レビューが進んでしまったが、実際、この作品にはあらすじと言えるようなものはなく、主人公の内省に全てが賭けられている。
こうした作品は「読めばわかる」し、わからない人にはいつまでもわからない。そうしたタイプの作品だ。
この作品の主調音を、作中から拾い上げてみるなら、次のような言葉になるだろう。
【ところが、ガスはこういった。「この池には、ほかに魚なんかいないんじゃないか。さっき釣ったのが、このしょぼい池でたった一匹の魚だったんだ。」
ウェーバーはいった。「じゃあ、もういっぺん、あいつを釣ろう」】
主人公含めた老人連が釣りをするシーンでの会話だ。ここでは、人生の比喩として釣りが使われている。人生は退屈なものであり、それは走馬灯のように過ぎ去っていくものかもしれないが、そこから逃げる事はできない。
一度やり遂げたらもう一度。
「じゃあ、もういっぺん、あいつを釣ろう」
それ以外にやる事はない。この作品から、作品全体を支配する哲学を無理やり引っ張り上げてきたら、こうした言葉の背後に人生への諦念を見出すしかないだろう。
※
作品はとりとめもない主人公の内省の連続であるが、最後にわずかだけドラマの切れ端が現れる。これは作者が作品を閉じる為に意図的に持ち出したものだろう。というのは、主人公の内省だけならば、作品は終わる事がないからだ。主人公の意識の持続はいつまでも続き、作者はいつまでもピリオドを打つ事ができない。
ラストでは、シドニーという老人が火事で死ぬ。妻が火事で家に取り残されたと勘違いして、火の中に入っていってシドニーは死んだ。シドニーの死について主人公が考えている中途で作品は終わる。
シドニーの死は主人公自身の死の代理である。主人公はシドニーが死んだのを見て、改めて自らの死について考えざるを得ない。自らの死についての反省はいつまでも終わらないにしても、シドニーの死という一つの現実が、主人公自身の無意味な死を暗示して、作品は終わる。
今、私は死を無意味だと書いたが、例えば、作品の一番ラストの描写はそうした人生の在り方を象徴してはいないだろうか。
【最後の祈りが終わるまさにその瞬間、金属バットにボールの当たる音がひびいた。きれいに澄んだ音につづき、観衆のどよめきがあがる。ボールはセンターの後ろのフェンスにぶつかって跳ねかえり、ビリー・マーシュが鉄砲弾のように二塁へ走る。母親たちも父親たちも子どもたちも、かき氷を手にフェンスの向こうから必死の声援を送る。センターを守る少年がボールをつかみ、ビリーは全速力で三塁へ向かう。キャッチャーはホームベースの前でかまえ、返球を待つ。売店に並んでいたビリーの母親も、列を離れて駆けもどる。球はセンターからショートへ、ショートからホームベースへ。ビリーが滑りこむ。頭からつっこむのと同時に、ボールがキャッチャーミットに吸いこまれる。間髪入れず、アンパイアが両腕を広げ、ホームベースに滑り込んだビリー・マーシュにセーフを宣言した。】
これが作品の終わりだが、作品のそれまでの流れと一切関係のない野球についての無機質な描写になっている。このシーンは、厳かであるはずのシドニーの葬儀の最後の祈りを中断して現れる。
ここに、老人連が死に向かっているその反対物としての、若者らの生き生きとした姿を見る事もできなくはないが、私はそうではないと思う。無機質で、感情の欠けた唐突な野球シーンの描写は、人生そのものの退屈さを表しており、またそれは本来大切であるべき最後の祈りを中断して登場する。
これが人生であり、そういうものであり、またそれ以上のものではない。しかし、主人公は死ぬ事もできず、生き続ける。
「じゃあ、もういっぺん、あいつを釣ろう」
…そんなわけで、この作品はスタート地点に戻る。
…さて、私達はこの優れた作品からどんな教訓を得られただろうか? …答え、何も。ただ、私達は、私達と同じように生きている個人が確かに存在していると、こうした作品を通じて知る事ができる。
それは人生の退屈さを知っているのは自分一人ではないという事だが、この内省を我々は作家のようにうまく捉えられない。だからこそ、こうした心の声をうまくキャッチできるホロンのような作家が必要になる。
一部の読者は、こうした作家の作品に密かに、自分自身の心の声が綴られているのを聞く。過去のある時期に、自分自身が本当に発した声ででもあるかのように作者の言葉を聞く。あたかも、それが〈自分自身〉であるかのように人々は他者の声を聞く。