東野篤子と小学生の私
東野篤子という学者を知ったのは暇空茜という人について調べていた時で、暇空茜が東野篤子にいきなりネットで突っかかった、という情報を先に知った。
それで東野篤子という人が、今のウクライナーロシアとの戦争においてウクライナ側に立っており、その関係で名が売れた学者だとわかった。その時はそれ以上調べる気もなく、(ふーん、そういう人がいるんだ)で終わった。
その後、與那覇潤氏の文章を読んで、東野篤子という人が「ファンネル使い」の一人だとわかった。「ファンネル」というのはガンダムで出てくる武器なのだが、そこまで知る必要はない。要するに、自分の信者や取り巻きを利用して相手を攻撃する人たちの事だ。これらの人は結構な人気を誇っていて、周囲にはボスの意向を汲む信者がいて、それらが日夜、ネットでバトルをしている。信者の相手方への突貫は大きな武器になるというわけだ。
先に愚痴を書かせてほしいが、(最近はこればっかりだな)と思う。何か新しい人が出てきて、私はインテリには興味があるので、(なんかまともな知性の人かな?)と思ったら、大抵はこの手の「インフルエンサー」である。誹謗中傷がどうしたこうした、左と右がどうしたこうした、色々ぐちゃぐちゃやっているが、正直言って、心の中で怒鳴ってやりたい。…その叫びは、次のようなものになるだろう。
「てめえら、全員同じじゃねえか! どいつもこいつも一緒じゃねえか! 数で殴るだけか? それが正義か!? 数しかねえのか? 矜持はあるのか? この世に生まれて一秒でもいいから、自分自身と向かい合った事があるのか? 「大衆」以外の価値観はないのか? いい加減にしろ!! 右も左も上も下も全部一緒だろが!」
…まあ、私は日常生活ではおとなしい「草食系男子」なので、せめてネット上ではこれくらい叫ばせてもらいたい。それにしても、私と同じように感じている人もそれなりにいると思う。しかしそうした人は少数派に属するだろうし、少数派は多数派がファンネルで華麗に戦っているのに対してどうする事もできない。
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さて、叫び終わったところで本題に入るが、東野篤子という人は「note」で「『負け組』応援団でいいじゃない」という文章を書いている。これは、ウクライナとロシアの戦争において、ウクライナに残っている人は「負け組」だと誰かが書いた事に対する反論のようだ。
その中にこんな文章がある。
【自ら前線に向かい、国土防衛のために闘う人。
ウクライナ国内で経済を回し、防衛を支えようとする人。
生き残りと発信のためにウクライナ国外に出て、活動する人。
その選択には優劣などなく、すべて強く美しいと、私は思います。】
この文章だけでもどういう人がわかる。この文章にあらわれているのはセンチメンタルさであって、小学生のような正義感だ。私はこうした文章はベストセラー本によくある調子と似ていると思う。単純でわかりやすく、センチメンタルで、物事の微細さに入り込まない。これは細かい事を考えたがらない大衆の好みだろう。
正直言って、東野篤子という人を批判しても仕方ないと思うので、私は自分自身の話をしたいと思う。私は今「小学生のような正義感」と書いたが、実のところ、私は小学生の時、こんなような文章を書いた。
小学生の頃なので細かい話は覚えていないが、私は「戦争は良くないからやめるべきだ」というような文章を書いて学校に提出した。小学校の高学年だったろう。
今と当時は風潮が違う。当時は「戦争はけしからん!」という風潮が支配的であり、最近は右傾化してきたのか、東野篤子のような「国を守る為に命を張るの素晴らしい」というような論調も徐々に増えてきている。しかしこれらの意見は反対のようで、実際にはそれほど変わらない。というのは、中身がない事、自分の頭で考えない事、世の中の風潮に合わせた意見だという事、これらは同じだからだ。
小学生の私は、どういう事を考えてそういう文章を書いたのか。私はませていたので、文章は大人びたものだったが、中身の意見については全く子供だった。私は、周囲の大人、教師や親など、更にはその先にある権威が、おそらくは私に要求するだろう意見を先読みした。要するに大人達に媚びる形で、「戦争は良くない」という文章を書いて学校に提出した。その後、その文章がどうなったかは覚えていない。
その後の私は自分自身でその事実に気づいた。小学生のうちに気づいたのか、中学に上がってから気づいたのか、記憶は曖昧だが、とにかく二、三年以内に私は気づいた。私は自分が大人に媚びて、ああいう文章を自分の意見でもないのに書いた、その事実に気づいた。私はその事に気づいた時、それを自分の恥辱だと感じ、長い間、この感情を心の中で握りしめた。私は、「二度とあんな文章は書かない」と心のなかで誓った。
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実を言うと、小学生の私はもう一度同じ事をしていて、それは「みんなもっと選挙に行くべきだ」という文章を提出した事だ。もっとも、上記に書いた事と根本的に同じだし、記憶も曖昧で因果関係がいまいちなので、これ以上は書かない。
さて、私はそういう文章を小学生の時に書いて、そういう自分を恥じ、それからはそうした文章を書かなくなった。
私が東野篤子という人を批判しても仕方ないな、と感じるのは、東野篤子の「『負け組』応援団でいいじゃない」という文章は、小学生の頃の私と同じように、本心で書いているようには見えないからだ。
「『負け組』応援団でいいじゃない」という文章を全文通読してもらうと、まるでよくできた小学生の文章を読んでいるような気分になるだろう。私は、東野篤子がこういう事を本気で思って書いているという風には感じない。東野篤子は小学生の頃の私のように、大衆が好きそうな感情、感傷、態度、そうしたものを先読みし、それをなぞっているのではないかと思う。
最も、それら全てを意識的にやったとも考えにくいので、ある程度は本心なのだろうが、しかしこのあまりにも紋切り型で中身のない文章は私には東野篤子がある程度は計算でやったものだと睨んでいる。
それでも「『負け組』応援団でいいじゃない」という文章をまともに批判するとしたら、そもそも戦争というのはそんなに生ぬるいものではないし、戦争についてのフィクション・ノンフィクション、色々読んでいくと、東野篤子の考えるような善と悪がきっぱりわかれるキレイな戦争なんてものはない、というのが結論になる。
私は第二次大戦に関するノンフィクションもフィクションもそこそこ触れてきたと思うが、東野篤子の言うような綺麗で美しい戦争などというものに一つもお目にかかった事がない。それは戦争を知らない人の都合のいい空想でしかない。
例えば「ペリリュー沖縄戦記」というアメリカ兵が、沖縄で日本人と戦ったノンフィクション本があるが、これを読むと戦争というのがいかに人を狂気に誘うかというのがまじまじと感じられる。アメリカ兵は勝った側であり、どちらかと言うと「正義」(世界の大勢の中でそう認識されているという程の意味)の側であったはずだが、正義で勝者の側だったアメリカ兵にしてもこれだけ心の傷を負い、非人間的な境地に追いやられるのを読んで、私は衝撃を受けた。
こうした体験をした人達が「戦争というのは絶対にすべきではない」と言ったなら、そこには体験からくる真実性がその言葉に宿るだろう。彼らは実際に人を殺し、殺されかけ、狂気に陥りかけた、そうした経験から、戦争というものがいかに人間を荒廃させるのかというのが如実にわかっている。
(これを逆に考えて、戦争を国を、人を守る為に必要なものだと言いたいとしても、その場合、戦争というものが及ぼす非人間性を承認しなければならない。その重たさを理解した上で、それでも肯定する、そうした肯定でなければならない。そんな事が人間に可能かどうかはともかくとして)
それと比べて、「戦争は良くない」と言う小学生の私と、「国を守る姿は美しい」と言う東野篤子という学者は大して変わらないなと私は思う。どちらも戦争という経験の恐ろしさ、その深み、恐怖、凄惨さ、人間という深淵に降りていく事なく、それぞれにそれぞれの党派に受け入れらそうな言葉を語っているだけだからである。
そういうわけで私は「東野篤子=小学生の私」説を唱えたい。まあこの説に賛同する人はせいぜい、小学生の頃の私を知っている私一人くらいであろうが。